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ヨシュア:わたし達はここから何処へ向かうのか? [イエス:ヨシュア]


ヨシュア

Jeshua


わたし達はここから何処へ向かうのか?
Where Do We Go From Here?



10 January 2013 - 1:12pm
ジュディス・コーツ経由
Channeler: Judith Coates

Tuesday, 1 January, 2013 (posted 10 January, 2013)


 

最愛なる者、わたしは皆さんがひとつの質問を抱えて座っていることを確認してきました。

 

極めて重いように見えるひとつの問題点であり、前触れもなく、ひとつの発想が皆さんに現れるようになり、そして皆さんは飛び上がり、その改善を行います。

 

皆さんは、おそらくしばらく前にはそこになかった、あるいは存在するようには見えなかった、3番目の選択と伴に進みます。

 

それは実際にありましたが、しかし皆さんはそれを承認しませんでした。

 

そして皆さんは、少し改善を行い、そしてあらゆる物事が変化します。

 

何故なら、それはそうしなければならないからであり、何故なら、皆さんは創り出している本人だからです。

 

 

 

 

 

皆さんは神聖なるひとつの創造的な根源の延長であり、そして皆さんは創造的です。

 

嗚呼、皆さんは創造的です!

 

わたしは皆さんの数々の創造と伴に皆さんに注目してきました。

 

そしてわたしは皆さんが経験した一部の見通しと苦闘している皆さんに、注目してきました。

 

そして時間と伴に外見的には対立した状態になり、わたしは忍耐力を持たなければならなくなるだろう、と口にします。

 

 

 

 

 

皆さんは、皆さんがすぐに皆さん自身を余りにも大きなひとつの混乱の中に置かないようにするために、時間をこの現実性の中のひとつの贈り物として考案しました。

 

もしも皆さんが、皆さん自身のために創り出している現実性の中で瞬時にその選択をして、その選択になるように見えるあらゆるものに向かうことができたなら、皆さんは頻繁に、フライパンから炎の中に飛び込んでいるでしょう。

 

言い換えると、おそらく皆さんが実際に存在することを望まない、ひとつの場所に向かっているでしょう。

 

 

 

 

 

そのため皆さんは、皆さんが熟慮できるように、皆さん自身を、皆さんという創造的な存在を、時間と言う贈り物を、贈呈してきました。

 

もしかすると、長い間ではないかもしれません。

 

それは展開される必要はなく、あるいはそうなることもできますが、そして皆さんは理解するかもしれません、


やれやれ、もしもわたしがしかじかを行うと、それはそこから現れるかもしれない何らかの意義があるもののように見える。

 

もしかすると、わたしはこれを再考したいのかもしれない。” 

 

そして皆さんが瞑想する時、皆さんが熟慮する時、皆さんが再考する時、他の数々の発想が現れることになるでしょう。

 

そして皆さんが改善を施し、皆さんはひとつの新しい現実性を思い付きます。

 

 

 

 

 

皆さんが皆さんの現実性と呼ぶものの立体映像に目を向ける時、皆さん自身が断定的な判断を下さない状態になることを許してください。

 

分断された自我は何度も、舞台上を走り回り、こう口にすることになるでしょう。


やれやれ、この立体映像は、あなたがあなた自身のために作っているこの現実性は、本当に滅茶苦茶だ。


わたしはあなたがそういった混乱に入る方法が分からない。

 

分断された自我は、自分が自我として存在することを、皆さんの真の存在性を、認めません。

 

それは、皆さんが数多くの生涯を伴に旅してきた、ひとりの古い友人からの習慣的な反応です。

 

 

 

 

 

しかし今、皆さんは、皆さんが、


ちょっと待て。わたしは判断する必要はない。


もしかすると、わたしが今まで選択してきたあらゆる物事は、わたしがこれほど強く願ってきた目覚めにわたしを適切に導いているかもしれない

 

と口にする場所にやってきています。

 

そしてその通り。

 

皆さんが選択するあらゆる物事は、やがて皆さんを時間が存在しない場所に導くその次の段階に皆さんを導く、次の段階に導きます。

 

 

 

 

 

このメッセージの後で、わたし達はひとつの瞑想と呼ばれるものを行うことになるでしょう。

 

それは皆さんが、時間のない場所にやってくることを許すことになりますが、しかしまさに今、わたしはもう少し長く話をすることになります。

 

こうした言葉を読んでいるすべての皆さんが、皆さんが直線的な時間を確認しているように、ひとつの歓びに溢れた未来に向かって歩んでいるところです。

 

何故?

 

わたしが皆さんに伝えるからではなく、皆さんが既にそれを宣言したからです。

 

皆さんは、他の誰かが皆さんを思いのままに支配する可能性があるその苦悩を、心配を、怖れを、皆さんは完了する、と宣言しました。

 

 

 

 

 

皆さんがこの言葉を読むこの瞬間でさえ、皆さんは実現性と可能性に属する新しい空間に向かって進んでいます。


わたしは他の誰かの小文字の ‘t’ の真実によって限定されない。


わたしはわたしが理解し始めて、わたしの力を、わたしの神聖なる創造力を取り戻すひとつの場所にいる

 

と話す、希望のあるひとつの場所であり、そこは他の誰かを思いのままに支配することがない場所です。

 

それは選択に属する、皆さん自身の選択に属する、ひとつ力です。

 

そして皆さんは、皆さんがそうなることを望む通りに、幸せになることができます。

 

 

 

 

 

何だ!わたしはそれがそんな風になるとは、決して考えなかった。


わたしはわたしがそう望む通りに幸せになることができるって?


ちょっと、もしかするとわたしはそうなることを望んでこなかったのかもしれない。

 

これはその通りです。

 

他の数々の場合に、皆さんは幸せになることを望んできませんでした。

 

皆さんは苦闘することを望んできました。

 

何故なら、少なくとも皆さんは、何かを行っていたからです。

 

あるいは皆さんが 数々の困難な課題” を通して苦闘している時、皆さんの小さな自我が、皆さんは何かを行っていた、と考えました。

 

 

 

 

 

そのためわたしは皆さんに、歓びに溢れた未来について話をします。

 

歓びを認識すること、世界の断定的な判断から自由になること、小さな自我から自由になること、時間の外を歩むこと、怖れの外を歩むこと、皆さんが わたしは自由だ” と話すひとつの場所に現れることは、皆さんの神聖なる遺産です。

 

何故なら、皆さんという存在の真実が、皆さんを自由にすることになるからです。

 

 

 

 

 

皆さんという存在の真実は、皆さんは、皆さんがその中で演じるあらゆる現実性を創り出している大文字の “S” の聖なる自己である、という事実です。

 

わたしは 演じる” という言葉を伝えましたが、それはひとつの演劇の内部の演劇の内部の演劇になっているからです。

 

時に皆さんは、それを複雑なものにしますが、そのため皆さんは、それがひとつの演劇の中の演劇の中の演劇であることさえ認識しません。

 

 

 

 

 

わたしは皆さんに、皆さんは決してひとつも悪い選択をしていない、と伝えます。

 

皆さんは数々の選択を行い、皆さんはそういった数々の選択の結果を受け入れますが、しかしその選択はすべて、皆さんの旅の一部です。

 

それは目覚めという神聖なる旅であり、そして皆さんは決してひとつも悪い選択はしてきていません。

 

あらゆる選択は、皆さん自身のための皆さんの力を受け入れながら、皆さんをまさに今ここに存在する、ひとつの場所に導いてきました。

 

皆さんは、あらゆる瞬間に、皆さんの現実性を作り続けています。

 

それは皆さんの力強い姿を表します。

 

そして実際に、皆さんは皆さんの力を手放すことはできません。

 

皆さんは、皆さんが他の誰かに、彼らの信念に、彼らの数々の予言に、皆さんの現実性を与えることができたように見える、そのひとつの現実性を作ることはできますが、しかし実際に、皆さんは皆さんの力を手放すことはできません。

 

何故なら、それが皆さんだからです。

 

 

 

 

 

それをしばらくの間、浸透させてください。

 

皆さんの力は、皆さんの神聖なる存在性であり、そしてそれは、皆さんを故郷に導きます。

 

皆さんが今までどのような選択を行ってきたかにかかわらず、分断された自我がどれほど多く皆さんに、皆さんは悪い選択をしてしまった、と叫んできたかにかかわらず、あらゆる選択は、皆さんを故郷に導き続けています。

 

そのため、その事実の中で幸せになってください。

 

事実通り、皆さんは故郷に帰っていることを、認識してください。

 

 

 

 

 

皆さんは、故郷は他の何処かにあり、それを見付けて、それに気付くだけの価値があるようになるために、皆さんはすべての種類の儀式をしなければならないという、小文字の “r” の現実性と戯れることができます。

 

それは、皆さんの権威筋、皆さんの宗教的指導者達によって、数多くの世代の間ずっと、皆さんに教えられてきました。

 

彼らは、皆さんは特定の方向に顔を向けなければならない、皆さんは特定の食べ物を食べなければならない、あるいは特定の食べ物を食べてはいけない、と話してきました。

 

皆さんは片足で立たなければならない、皆さんはもう一方の足を皆さんの後ろに持ってこなければならない、皆さんはひとつの小鼻を閉じたままにしておかなければならい、等々の、皆さんを今後皆さんの聖性を認識するだけの価値あるものにするという、すべての数々の異なる儀式です。

 

 

 

 

 

そして皆さんがそのすべてを習得し終えた時、次に彼らはさらにひとつの物事と一緒に現れます。

 

皆さんは、宗教的で哲学的な組織、あるいは他の何らかの組織に対してひとつの巨大な寄付を行わなければならない、そうすれば、彼らは皆さんのために祈ることになるでしょう。

 

皆さんは、皆さんのために祈る他の誰かが必要ではありません。

 

皆さんは、皆さん自身のために祈ることが必要です。

 

皆さんは内面の自己を、神聖なる自己を承認して、その神聖なる自己と頻繁に話しをすることが必要です。

 

 

 

 

 

これが、祈りというものです。

 

それは、内面の自己と話をすることです。

 

皆さんはそれを、皆さんが祈る時の神に対する話し掛けと呼ぶことができますが、しかしその神の自己は皆さんの内部に存在します。

 

皆さんは、皆さんはわたしに対して祈っている、と言うこともできますが、しかしわたしは皆さんとひとつであり、そしてわたしは皆さんの内部に存在し、そのため事実通り、皆さんは皆さんの自己の内部、皆さんの内的な存在に対して祈っています。

 

そして皆さんは、祈りを明確化のために利用します。

 

 

 

 

 

皆さんは言葉で、数々の発想で祈ります。

 

そしてその時、皆さんは耳を傾けます。

 

それが瞑想です。

 

そのため、数多くの皆さんや兄弟姉妹達は、いつでも多くの言葉で祈ります。

 

わたしはそれを聞きます。

 

そしてその時、その答えが皆さんのところに現れる可能性がある時、皆さんはそれを締め出して、皆さんは何処かへ走り去ります。

 

何故なら、皆さんは何かをしなければならないからであり、あるいは皆さんは、事実通り皆さんは内面の自己を認識するための、皆さんという存在の真実を認識するための力を持つことを、自覚しないからです。

 

 

 

 

 

そのため、皆さんが祈る時、それは祈るためにはとても良いことですが、皆さんは皆さん自身のためにその状況を明確化しています。

 

そして皆さんは、特定の結果のために祈ることができます。

 

もしも皆さんがその展望を関係するすべての人々のための最高最良のものから現れるものにするなら、特定の結果、ひとつの展望のために祈ることは何も悪いことはありません。

 

皆さん自身のため、そして皆さんとその展望の中にいるように見える他のすべての人々のための、最高最良のものです。

 

 

 

 

 

そしてその時、皆さんがそれまだに祈ってきた対象を瞑想してください。

 

耳を傾けてください。

 

静かにして、そして内部の声を聞いてください。

 

急いで出て行うために、過剰に急がないでください。

 

その行為は、それ自体を配慮することになるでしょう。

 

 

 

 

 

人生のあらゆる段階が、皆さんに数々の機会を提供します。

 

時にそれは、その機会のようには見えませんが、しかし今、皆さんは皆さんが物事を確認する方法を変化させているところです。

 

もしも皆さんが、ひとつの新しい眼鏡が必要なら、外出して、皆さんが物事を異なるように確認することができる新しい眼鏡を入手してください。

 

それを試してみてください。

 

皆さんは数々の日傘を取り除くことができます。

 

そして皆さんは、皆さん自身の光によって目が眩むことになるでしょうか?

 

その通り、おそらく、一瞬かそこらの間。

 

しかし次に皆さんは、順応します。

 

それは大丈夫でしょう。

 

皆さんが大文字の“S”の神聖なる自己を承認すること許す、皆さんが思い付くどのような手段とでも戯れてください。

 

それが皆さんです。

 

 

 

 

 

皆さんがその内部で戯れる数々の現実性を承認して、そして事実通りそういった数々の現実性の内部で戯れてください。

 

一部の皆さんは今、既に皆さんが遊ぶことを自由に選択して、皆さんが世界的な数々の物事の把握と苦闘する必要がないことを承認する場所にきています。

 

 

 

 

 

これは、わたしが2千年前に、あなたがわたしの弟子だった時に、あなたに伝えたことです。

 

ご存じのように、わたしには12人の弟子がいました。

 

おや、わたしはわたし自身を限定しようとしているのでしょうか?

 

違います。そして彼らはすべてが男性という訳ではありません。

 

わたしは現在の現時点のように、沢山の男性の友人を持っていましたが、しかしまたわたしは、その当時のその時代に、そして今も、沢山の女性の友人を持っていました。

 

そして時に、直観的な女性は、AB、そしてCを一緒に置くための方法の論理を認識することを望む男性のエネルギーよりも、わたしのメッセージを速く把握しました。

 

 

 

 

 

そのため、時に皆さんは、精神的なものを一方に置いて、皆さん自身が女性的な愛の中に留まり、こう話すことを許してください。


たとえわたしが完璧ではなくても、わたしはわたし自身を愛します。


そしてヨシュアはわたしに、わたしは完璧だと伝えます。


さて、もしかすると彼は正しいのかもしれない。


わたしは以前彼の話を聞き、そして時々彼はただしかった。


そしてもしかすると、もしも彼が時々正しかったのなら、彼はたった1回か2回よりも多く正しい可能性があるのかもしれない。

 

そしてわたしは皆さんに保証しますが、わたしが皆さんの神聖なる本質について皆さんに伝えていることは、正しいことです。

 

 

 

 

 

わたしは予言しましたか?

 

いいえ。おそらく、数々の実現性、数々の可能性です。

 

わたしは現在の時代で予言するでしょうか?

 

いいえ。

 

皆さんはわたしが予言しない理由が分かりますか?

 

何故ならわたしは、皆さんが次の瞬間に選択することになるものを、皆さんに伝える力を持っていないからです。

 

わたしは、皆さんの創造的な改善のなかで、皆さんを確認してきました。

 

わたしは皆さんに、翌週の皆さんの水曜日と呼ばれている週の真ん中の日の午後零時に、稲妻が起るようになることを伝えることはできます。

 

それは形而上のものですが、それが皆さんを、皆さんがひとつの新しい理解を持つことになる場所で殴り倒すことになるでしょう。

 

もしかすると、これは起るかもしれません。

 

もしかすると、それは起らないかもしれません。

 

もしかすると、それは午後2時かもしれません。

 

それは、皆さんが宣言する通りになるでしょう。

 

そのため、わたしは予言をしません。

 

そしてわたしは、わたしの力を数々の予言に明け渡すことはありません。

 

 

 

 

 

さて、わたしは皆さんと、瞑想と呼ばれているものを行いたいと思います。

 

視線を和らげることを許してください。

 

皆さん自身が深呼吸をして、皆さんに内面のひとつの穏やかな場所をもたらすことを、許してください。

 

世界が認識しないその穏やかな場所に、皆さんの神聖なる自己が認識しないその穏やかな場所に、皆さん自身が現れることを許してください。

 

今起っているあらゆる物事から、今まで起ったあらゆる物事から、起るかもしれないと皆さんが期待してきたあらゆる物事から、皆さんが身を引くことができる、穏やかな場所です。

 

永遠の今という、穏やかな場所です。

 

 

 

 

 

それが、皆さんが留まる場所です。

 

永遠の今に属するその場所の中で、今という瞬間の中で永遠に前進します。

 

その今という瞬間に向けて、穏やかさを呼吸してください。

 

皆さんの今という瞬間に向けて、その穏やかさを呼吸して、そしてその穏やかさを認識してください。

 

それは、ひとりの聖なる子供としての、皆さんの神聖なる遺産です。

 

皆さんの穏やかさから離れないでください。

 

皆さんという存在のその穏やかさを認識してください。

 

 

 

 

 

皆さんは事実通り、決して皆さんを見捨てることがない永遠に続く愛で愛されていることを、認識してください。

 

何故なら皆さんは、決して愛を見捨てることはないからです。

 

皆さんはいつも、愛の中に留まることになるでしょう。

 

皆さんはいつも、ひとつとして、ひとつの聖なる今として、留まることになるでしょう。

 

 

 

 

 

そしてもう一度楽に呼吸をして、皆さんがそれについて考えなければならない、もしかするとそれについてこだわらなければならないように見える、皆さんの現実性の中に存在しているものを、思い浮かべてください。

 

皆さんと伴にある今という瞬間の穏やかさを維持しながら、それをその穏やかさの中に運んでください。

 

皆さん自身が穏やかさに留まり、存在するように見えるどのような問題点にも目を向けることを許してください。

 

 

 

 

 

手を伸ばして、その問題点を手で選んでください。

 

友人の友人として、その問題点と伴に歩いてください。

 

皆さんが皆さんの現実性と呼んできたその立体映像のすれすれのところまで、その問題点と歩いてください。

 

手と手を取り合って、すれすれのところまでその問題点と歩いてください。

 

そしてその端から、皆さんが小文字の “t” の真実でなければならないと話してきたその現実性を見下ろしてください。

 

見下ろして、下にあるその空間を確認してください。

 

単なる空間であり、開放であり、定義されていないものです。

 

向こう側を見て、皆さんの前のその空間を、広がりを、定義されていないものを、確認してください。

 

上を見て、皆さんの上に広がっているその空間を確認してください。

 

愛に満たされた、信頼に満たされた、神聖なる存在性という認識に満たされた、永遠の空間です。

 

 

 

 

 

何故なら、皆さんが進む時はいつも、ひとつの問題点となっているように見えるどのようのものとも、手と手を取り合って、皆さんは、まだ定義されていない、皆さんの神聖なる存在性に向けて歩きます。

 

そしてすべては、皆さんの力の範囲内にあります。

 

そのため皆さんは、永遠の今という穏やかな空間に向けて歩きます。

 

そしてそれほど脅迫的で、これほど複雑に見えるその問題点は、何もないようになります。

 

それは、皆さんの一部になります。

 

皆さんは皆さん自身に向けて、皆さんの今という瞬間の穏やかさの一部として、既にそれを受け入れています。

 

 

 

 

 

怖れるものは、何もありません。

 

下に空間はなく、横に空間はなく、上にも恐怖を覚えさせる可能性がある空間はありません。

 

皆さんの周りの空間の中には、穏やかさだけが留まります。

 

それが鍵であり、皆さんの穏やかさの力です。

 

 

 

 

 

皆さんはいつも、永遠の今という瞬間に、永遠に穏やかな今という瞬間に留まります。

 

そして皆さんがその穏やかさの中に入れたどのような問題点も、皆さんの友人のようになり、皆さんの一部になり、そして溶けて皆さんのこころの愛になるでしょう。

 

どのような問題点も、それを皆さんのこころに入れて、愛と穏やかさの中で解消しながら、それを愛し、それを感じてください。

 

皆さんを上回る力を持ったどのような物事も、どのような人物も、どのような環境も、どのような問題点も、存在しないことを認識してください。

 

 

 

 

 

皆さんは、皆さんと伴に歩く何かと皆さんが考えたものを、創り出してきました。

 

そして皆さんは、皆さんの手を伸ばして、その問題点を手に取りました。

 

そして皆さんは、こう話しました。


現実性の端までわたしと一緒に来て、永遠の今という空間を、広がりを、まだ定義されていないものを、見上げてみよう。

 

 

 

 

 

呼吸をしてください。

 

穏やかさを認識してください。

 

呼吸をしてください。

 

皆さんは、皆さんの現実性の中で、あらゆる物事を創り出していることを、認識してください。

 

したがって、皆さんはそれを抹消することができます。

 

皆さんはそれを手に取り、そしてそれを皆さんのこころに導き、それを愛の中で解消することができます。

 

何故ならそれは皆さんを圧倒する力を持っていないからです。

 

皆さんがそれを創り出してきました。

 

そして皆さんは、それを愛の中で抹消することができます。

 

 

 

 

 

そしてここで、もう一度深呼吸をしてください。

 

意識が身体に戻ることを許してください。

 

皆さんが今までそこにいた穏やかさを感じ、それを皆さんに取り戻してください。

 

どのような問題点もない状態の力を感じてください。

 

何故なら、それはひとりの友人であり、皆さんはひとりの友人を皆さんの穏やかさに連れて行き、愛の中でそれを解消することができるからです。

 

その意識をこの部屋に戻してください。

 

その意識意をその身体に戻してください。

 

 

 

 

 

皆さんは、皆さんがひとつの定義を選択するまで、皆さんは事実通り永遠の今という、開かれて、まだ定義されていない穏やかさの中に留まることを、認識してください。

 

それは、皆さんが皆さんの現実性の中に織り込む、ひとつの贈り物です。

 

それを頻繁に承認してください。

 

何故なら、まだ定義されていない永遠の今という瞬間の穏やかさが、皆さんという存在の大文字の “T” の真実になるからです。

 

そしてその巨大な穏やかさという空間の中で、わたしは、全存在のひとつの創造的な延長であるその一体性として、皆さんに加わります。

 

 

 

そうあらしめよ。

So be it.

 

ヨシュア・ベン・ヨセフ(イエス)

- Jeshua ben Joseph (Jesus)

in expression through Judith


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翻訳森のくまさま...ありがとうございます。

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