レディ・ナダ : イエスの愛 [レディ・ナダ]
Lady Nada
Jesus's Love
ジュリー・ミラー経由
Channeler: Julie Miller
Jesus’s Love
Ascended Master, Lady Nada’s Weekly Message ~ June 19 – 26, 2014
Received by Julie Miller June 19, 2014
神がひとつの永遠で魔法の存在感を持つことは、良く認識され理解されています。
一部の人々は、これを遍在と呼びますが、それは単純に神の存在感はあらゆる物事やそれ以上の物事の中にあることを言い表します。
創造主、つまり神のような個性を携える人々は、認識し認識されることができる人々であり、愛し愛されることができる人々であり、皆さんのひとりの友人になることができる人々ですが、その間にも、皆さんはさらに神のひとりの友人になる場所を“認識すること”から働き掛けています。
美しい輝くこころの皆さん、真実という概念は、美しさの概念としてひとりの親愛なる魂から別の魂まで異なります。
それにもかかわらず、美しさの概念は、ひとつの個性を持ちながら、その認知をしているその個人の内部には存在しません。
それにもかかわらず、神聖なる完全性、善性というその発想は、個性に関わる時に唯一理解されます。
美しさが意味するもの、あるいは真実として存在するものについての皆さんの個人的な発想は、神によって皆さんと共有されます... こうしたことは、実証された皆さんの内部の神の活動性という神の存在感の特性です。
美しい輝くこころの皆さん、神は本質的に親切で思いやり深く、そしていつも無限に慈悲に溢れています。
神が積極的に皆さんに与える神の慈悲深い愛という贈り物を受け取ろうとして、何らかの方法で神に知らせようとすることなど、決して必要ではありません。
皆さんが神を探す時、皆さんが神を呼び求める時、皆さんが感じるものは神の愛と親切です... ひとつの穏やかで柔らかな心地良い抱擁であり、それは皆さんの上で、皆さんの下で、そして皆さんの周りで、感じられるものです。
美しい輝くこころの皆さん、皆さんの神の必要性は、皆さんが必要とするすべてです。
何故なら、神はいつも皆さんと一緒にいて、皆さんという存在のすべてを認識し、皆さんの完璧さと欠点、皆さんの善いところと悪いところのすべてを認識するからです。
そして皆さんが純粋で誠実なひとつのこころで神の光と愛を探す時、神は皆さんがいるその旅が耐え難いものでありながら、それにもかかわらずその自覚で報われることを認識しながら、簡単にひとりひとりの皆さんを許します。
皆さんが皆さんの隣のその個人、皆さんの隣人あるいは皆さんの雑貨屋で大きな音を立てるレジ係でさえ努めて理解しようとするほど、皆さんにそういった困難な課題を与えることに対して、それぞれの皆さんが既に贈られている純粋なこころで神を許し、神を愛しさえすることは、さらに簡単になります。
美しい輝くこころの皆さん、慈悲は調和の中で機能するひとつの自然で予測できる善性と愛の結果であることは、充分に確固とした事実です。
神の愛の善性を持つことは、かなり壮大なことであるため、神がこの素晴らしく慈悲深い地球上で生きて呼吸をするあらゆるひとりの息子や娘を愛さず、慈悲を明らかにしないことなど、不可能です。
神は皆さんのためにそこにいることを認識し、皆さんが純粋で愛に溢れるこころから神に手を伸ばす時に神は皆さんを許すことを認識することは、皆さんに安心、公正、慈悲というひとつの感覚を提供し、そのすべてはすべて一致して現在の何らかの状況を公正で達成できるものとして表現します。
美しい輝くこころの皆さん、皆さんが皆さんのこころとたましいを生かす時、そして皆さんが神の存在感を信じ、皆さんのこころ全体で神を信頼する時、皆さんが達成することができない物事は何もありません。
神はいつも愛であり、神の美しい黄金の息子も愛であり、そして二人のエネルギーの精神は、すべての年齢、信条、文化に属するすべての人々に対する愛と尽きることのない慈悲を示します。
神の黄金の息子であるイエスの教えと聖書に追随する人々は、神がイエスを通して伝えるその愛に専念します。
イエスは、決してイエスの父に最も低い生き物への偏愛を明らかにすることに携わらせたことはありません。
そしてイエスは、決してイエスの慈悲の天稟をその当時の無法者や犯罪者達に贈るように神に求めたことはありません。
イエスが決して何らかのそういった物事のために神に要請しなかった理由は、イエスは既に神のこころを信じ、神の愛は本当であり、そしてこの認識はイエスの神の愛の永遠の源泉だったことを認識したからです。
そしてイエスが決して神からの何かを要求しなかったのは、この認識でした。
イエスは、イエスの旅のそれぞれの段階の間、そのこころのすべてでイエスの父を信頼しました。
イエスが実行したあらゆる行動は、イエスを通して機能し,普遍的な愛とつながりを共有している、神の直接的なひとつの啓示でした。
美しい輝くこころの皆さん、任意の個人が犯す可能性がある最も大きな過ちは偽りであり、特に自己欺瞞です。
人が内部で自己欺瞞のその行動と動作で動いている時、人々は構ってもらうことを望んでいるか、人々から人々自身の自然な能力と才能を奪うかそれで人々を否定することを唯一の目的にして、他の人々に対する一部の権力の形成を経験しようとしています。
その目立ちたがり屋、つまりいつも自分自身を目に見えない台座の上に置く者は、神のような個性を実証していません。
彼らはその目立ちたがり屋の自我の支配的な側面を実証しています。
それにもかわらず、それはその正真正銘の自己から現れていない誰かと遭遇する時に、もしかすると名前の中ではなく実践の中で頻繁に思い出される黄金律なのかもしれません。
誰かが虚偽または誇張された真実に気付く時、沢山の混乱が起り、その状態で人々は利己性と虚偽について話し、公正さを持たない数々の行動を話し通過する人々に対して公平さを要求します。
虚偽の場所から現れている人々に反論する唯一の純粋な方法は、その人々の上に愛と慈悲を輝かせて、神の愛と癒しの光をその人々の届ける支援をするように、神に祈ることです。
美しい輝くこころの皆さん、神の愛は神聖なものであり、神聖なる愛は許すだけではなく、行われた間違いを吸収し、取り除き、解消します。
愛の許しの側面は、慈悲の許しへ向けて超越します。
慈悲こそが、一方の過ちの責任を分担し、背徳な行動をきっぱりと終りにするために愛が前面に現れることを許します。
イエスとその愛に基づくその神聖なる教えに従うことは、皆さんに許しとその非難からの急さに関する新しい方向性と理解をもたらすために役立ちます。
親愛なる皆さん、救済または贖罪は、間違いを取るに足らないものあるいはほんの些細なものだと考えることではなく、救済が行うことは、間違いから学んでその間違いを正すことです。
イエスの愛は、すべが許しを目的にしているだけではなく、それはまた神の永遠の存在感の内部で生き残ることを目的にしています。
皆さんは、かなり頻繁に皆さんの子供達から、もしかすると他の子供達、また皆さんがあるいは個人的な用事で働くかそれを配慮するためにでかけた皆さんの道の途中で通り過ぎる他の人々から耳にすることとして、皆さんは人生の不公平さ、またはこれまたはあれの不公平さに関する不満について耳にします。
美しい輝くこころの皆さん、もしもいつも他の人々を他の人々がわたし達を扱う方法と正確に同じ方法で扱うとすれば、皆さんは事実通りどれほど悲惨な状態になるか、それを思い描こうとしてみてください。
もしもあらゆる人が正確にその人々に値するものを手にしたとすれば、皆さんはより多くの進歩が起ると考えますか?
慈悲深く愛に溢れるひとつのこころで育てられた子供達は、他の子供達や他の人々に対してほぼ間違いなく慈悲と愛を明示します。
一貫してひとりの子供に皆さん自身の行動によって愛に溢れて慈悲深くなることが意味することを教えることは、遥かに簡単なことです。
その両親や介護者達は、善良で、親切で、愛に溢れて、不愉快で、悪意があり、思いやりがあり、自分勝手等々になることが意味するものについての、子供達の最初の印象になります。
子供達は、意味もなく猿とは呼ばれる訳ではありません。
その理由は、子供達は、自分達がその大部分を過ごす家または世話される場所で教えられる物事を真似るか明らかにしてしまう異様な方法を経験するからです。
もしも皆さんが、皆さんが説教するように口喧しく話すことなく、イエスのようにより慈悲深くより寛大で容認する状態になって皆さんの家族を助けたいと思うなら、親愛なる皆さん、その時は皆さんの教は皆さん自身の行動から現れることを、思い出してください。
皆さんがより多く無条件の愛、親切、真実、敬意等々を実証するほど、皆さんは他の人々により多くの慈悲を明らかにすることになるでしょう。
そして皆さんの家族は、自分達と共鳴する部分を拾い上げて、自分達が新しく学んだ方法をその友達やその他の人々と共有することになるでしょう。
それは、一夜にして成長するようなものではありませんが、しかし日々の整合性で、それはどのような家族に対しても希望と変化をもたらすことができるものです。
もしも皆さんが皆さんの幼い子供達に思いやり深くなることが意味することを明らかにしようとするなら、それをひとつのゲームすることを試してください。
ひとつの目隠しを利用して、幾つかのヘッドフォンか、あるいは杖または松葉杖を見付け出して、聴覚障害者、目の不自由な人々、あるいは上手に歩けない人々、または通りを横切るためにちょっとした支援が必要な人になる振りをさせください。
単純なお願いから始まる質問でその子供達を勇気付けて、子供達により多くの変化をもたらしてその進歩を評価する挑戦をさせてください。
それは単なるひとつのゲームかもしれませんが、しかしそれは、基本的な自覚、思いやり、そして感謝、そしてその子供が今後拾い上げる他の数多くの特徴を教えるゲームです。
こうした練習はより年齢の高い子供達にも適用できるものですが、皆さんがもう少しだけ創造的な創意工夫を利用したいと思うかもしれない、その子供達の年齢に左右されるものです。
皆さんの家族の中でより多くの慈悲と愛を励ます他の方法は、決意表明を利用したものです。
皆さんは“わたしは決意する”と口にする時、皆さんは明快で簡潔な状態になっていて、こうした2つの単純な言葉(I WILL)はひとつの約束をしていない約束を示します。
わたしはより意識する、わたしはより用心深くなる、わたしはより人の話を聞く、わたしはより役立つようになる、わたしはすべての人々に敬意を払うようになる、といったようなものです。
皆さんが取り上げることができて皆さんが積極的に従う“決意表明”の一覧は尽きることはありませんが、それは今後他の家族、特に皆さんの子供達が、毎日の挑戦と状況の中でそれを試すように働き掛けることになるでしょう。
美しい輝くこころの皆さん、皆さんが行っていることは、皆さんの家族がより自覚的になり、よりこころを開き、より積極的に自分自身を超えて理解するようになるために、役立ち続けています。
それは、皆さんが非常に霊的になることを要求しないことを皆さんが理解することができるようにするためであり、皆さんが皆さんの家族がより愛に溢れて慈悲深くなる支援をする時には、皆さんは聖書を説教すること、あるいはイエスの名前を口にすることを求められていません。
皆さんの行動だけが、純粋で愛を込めた意図で溢れる皆さんの活動だけが、イエスについて話し、神の存在感について話します。
イエスの再臨は、外部の情報を通してではなく、内面から気付かれるものです。
イエスは既にそこにいます。
イエスが皆さんを、さらに新しい許しに、愛に溢れる数々の方法に、そして皆さん自身の一体性と正真正銘の慈悲と愛の特質に、導くようにさせてください。
そしてその通りに...
わたしは高められた霊の指導者、レディ・ナダ...
...ジュリー・ミラー経由
I AM Ascended Master, Lady Nada…
…through Julie Miller
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