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聖母マリア:真実のクリスマスの物語 [聖母マリア]

聖母マリア
Mother Mary

真実のクリスマスの物語
The True Christmas Story
24 December 2010 - 8:33am

ジュディス・コーツ経由
Channeler: Judith Coates
Friday, 24 December, 2010 



穏やかな皆さん、祝福された皆さん、至高の存在の子供達、わたくしは愛の中で皆さんへの挨拶を送っています。

それは本当に、皆さんが誰なのか、そして何者なのかという問題につながっているからです。

わたくしはマリア、キリストの母として認識されているものであり、わたくしも… そして皆さんも、それは同じです。


一年のこの時期、皆さんはキリストの誕生を祝っています。

キリストとは、神と呼ばれている至高の存在が顕在化したものです。

皆さんは、キリストを思い出し、皆さんの愛の象徴としてお互いに手に触れることができる贈り物を送るために、聖なる日として一日を選んでいます。

皆さんは、緊張を強いられながら、愛する人、友達、仲間に何を買おうか、何が完全な贈り物なのかについて悩む必要はありません。

何故なら、本当に既にその友愛の中に、皆さんはそういった人々に対して最も素晴らしい贈り物を、愛という贈り物を与えているからです。

その贈り物はこう伝えています、“わたしはあなたを大切にしています。

わたしはあなたに相応しいものを理解しています。

わたしはあなたという愛を認識しています。”


ですから、皆さんは単純な贈り物を選び、あるいは皆さんが望むなら贅沢な贈り物を選び、そして皆さんはその仲間に、友人に、知り合いに、同僚に、相棒に、皆さんのすべての愛を込めて、それを贈ります。

皆さんは贈り物がキリストであることを認識して、皆さんの愛と感謝と伴に贈り物をします。


わたくしは今、皆さんに本当のクリスマスについて伝えたいと思っています。

皆さんは良く知られているわたくしの夫ヨセフと伴にベツレヘム向かう旅、そしてどのように幼いヨシュアが馬小屋で生まれたかという物語を認識しています。

それは動物達が棲んでいた場所でしたが、しかし皆さんが原始的な洞窟と呼びたがるようなものではなく、寒くはありませんでした。

とても温かく、居心地の良いところでした。

動物達はその無邪気さと純真さで多くの愛を与えてくれて、それは本当に聖なる場所でした。


わたくし達がベツレヘムに近付くにつれて、わたくしは子供が生まれる時が近付いていることを認識して、自分達が滞在できる一軒の宿屋を探していました。

しかし宿屋の主人とその妻は、その宿屋の浮かれ騒ぎは出産の場所に相応しくないことを理解していたため、既にわたくし達のために宿屋の御夫婦が準備しておいてくれた、その宿屋の裏側にある馬小屋に行くように勧めてくれました。

それで皆さんは聖書の中で皆さんに伝えられているクリスマスの物語を手にしています。

そしてそれは大筋でにほんとうに起ったことです。

それはまた象徴的な意味での物語であり、数多くの水準で理解されるべきものです。


しかしわたくしは今、皆さんに本当のキリストの誕生について、本当のキリストの物語について伝えたいと思っています。

それは、時間が始まる前にそれは起っていたからです。

皆さんが神と呼ぶ、すべてという普遍的な存在の知性の中の想念として存在していた時に、光を創造し表現するという想念が生じた時に、それは起りました。


それが最初のキリストの誕生でした。

皆さんは何度もキリストの誕生に立ち会っていて、今回の生涯でさえも皆さん自身のキリストの誕生を経験しているのですから、皆さんはその場に存在していました。

その時皆さんは、“なるほど!わたしはわたしが自分のことをそう考えている以上にならなければならないのか。

わたしは仲間達、家族、友達が、それがわたしだと伝えていた存在以上になる必要がある”、という瞬間を経験してきました。


啓示の瞬間を、皆さんが状況を把握する方法と人間関係の見方を変化させるために経験しているキリストの回想の瞬間を、そしてキリストの誕生の瞬間を、皆さんは経験してきました。

それは一年の中のたった一日で起っていることではありません。

何時でも、どの場所でも、そして誰がいようとも誰がいなくとも、起り得ることです。


皆さんが実現する時はその瞬間です。

皆さんは皆さんの自覚的意識のなかで実現します。

すべての男性や女性のすべての皆さんは、どちらの方が自分らしいかを理解するためにその光を経験しようとして、この現実性の中に現れているキリストです。

ですから、彼らは皆さんが幸せで歓びに溢れている時、皆さんが高揚し、世界が人間としての経験を強いていると言われているものを超えた時に、オーラと呼ばれてきたものを確認することができるのです。


ですから、皆さんはキリストを思い出すためのひとつの機会として、毎年一日を設定してきたのです。

それは、過去にキリストと呼ばれ、今もそう呼ばれているわたくしの息子、一人のヨシュアだけではありません。

ヨシュアは、たとえ世界がそれを受け入れないとしても、小さな存在として、そして後に自分が一人の人間として皆さんの中で歩むことができるように、そして真実の状況と皆さんがどれほど素晴らしい存在かという認識を皆さんと共有できるように、ひとりの人間としての人生を経験したのです。


愛を思い出す機会を経験できるように、そして皆さんがどれほど愛されているか、小さな子供として何時もどのようにして皆さんが聖なる母地球の上を歩んでいるかを思い出す機会を希望に満ちて経験できるように、皆さんはひとつの日を設けています。

何故なら、皆さんがどれほど成長したとしても、そして自分自身に対してどれほどの年月を費やしたとしても、皆さんはいつも小さな無邪気な子供であり、世の陋習を認識せず理解もしない小さな子供として存在しているからです。


そしてそれが、時々皆さんが世界に足を掬われる理由です。

何故なら、皆さんが人々を把握しているように人々もそう把握しているはずだと考えることは、意味を為さないからです。

彼らが皆さんに伝えるように、おそらく世の中は困難で、愛情の無い、辛辣でさえあるものなのでしょう。

何故なら、皆さんは愛それ自体として存在しているからです。

皆さんは愛されることを望み、皆さんは愛を表わすことを望み、そして皆さんは愛を自由に、無邪気に、制限なく与えることを望んでいます。


それにもかかわらず、二元性の価値を信じているこの現実性の中で、良くも悪くも、世界が今まで皆さんに教えてきたことは、皆さんが聖なる母、地球の表面を歩んだキリストよりも劣っているかもしれないと感じることです。

ですから、皆さん自身や他の人々に失望を感じる時が存在しているため、皆さんはどうしてそうなってしまうのか不思議に感じています。


皆さんもそうですが、“もしもわたしが地球の表層を歩んでいるキリストの子供であれば、どうして否定的な感情を持つことができるのでしょうか?

どのようにしてわたしは自分自身や他の人々に断定的な判断を下すことができるのでしょうか?

”それは人間の条件と呼ばれているものの一部であり、それにもかかわらず皆さんがこの世界に現れた理由は、それが大文字の“R”(Real)の実在では無いことを明らかにするためです。

それはこの現実性の中では、小文字の“r(real)”で、存在します。何故なら、この世界の現実性はこう伝えているからです、“なるほど、皆さんはあらゆる種類の機会を備えており、その中のある人々にはよいものになり、またある人々には良いものにならないでしょう。”


しかし実際は、皆さんに訪れるそれぞれの機会はそれと伴にある贈り物を運んできます。

皆さんがそれを違ったものとして把握し、皆さん自身をその贈り主として把握するための贈り物です。

何故なら、皆さんはすべての物事を明らかにするからです。

皆さんを除いて、皆さんの世界の中で皆さんの生命を生きている人は誰も存在していません。

そして皆さんは、物事を明らかにし、表現し、経験し、そして判断をしている神聖な尊い子供です。


しかしその判断は、世界全体を覆うようになってしまうと、正確な判断ではなくなります。

それは公正な判断ではなくなります。

それは皆さんがこの現実性の中の悠久の時を経て下してきた判断であり、愛とは別のものになっている可能性があります。

それが皆さんの前に現れる時、わたくしの息子が皆さんに本当に何度も伝えているように、深く呼吸をして、皆さんがそれはとても良いとは感じない場所にいるかもしれないと自覚した場合はすぐにそこから退き、もう一度深く呼吸をして、後ろに下がり、こう尋ねてください。

“わたしはどのようにすれはこれを違ったように確認できるのだろうか?

 確実に、これを把握する別の方法があるはずだ。”


そしてもしも皆さんがあるものについて異なる見方を持とうとして文字通り方向転換しなければならないとすれば、たとえ皆さんが少々空回りしなければならないとしても、それで大丈夫です。

何故なら、皆さんは見方の変化を望んでいるからです。

皆さんは認識することを望んでいます。

“わたしはどのようにしてこれについて違った把握ができるだろうか、何故なら、わたしはとても深い水準でこの中でひとつの才能にならなければならないと認識しているのだから。

さもなければ、わたしはそれを明らかにしようとはしないだろう。

わたしは創造的な存在者の延長となっていて、今わたしは創造している。

そしてもしもわたしが創造的な存在者の延長でありこれを創造しているのであれば、その結果は確かにその中に何か良いものが存在していなければならず、わたしはその良きものを確認したい。”


そして皆さんは深く呼吸をして、その問題から退き、皆さんは聖なる状況を確認することを求めます。

わたくしの息子が皆さんに何度も伝えているように、その全体、全体の状況を確認することを求めます。

その一部だけではなくて皆さんの眼の前のそのままの状況です。


創造的な存在者の表現の内部には、数多くの現実性が存在しています。

この世界は唯一の現実性ではありません。

この世界はより困難な課題を抱えた現実性のひとつであり、これがわたくしの息子が皆さん熟達者達に声を掛けている理由です。

何故なら、神性以外のものを信じてきたひとつの現実性にもう一度戻ってくることを選択した唯一の熟達者こそ、その息子だからです。

そして、その神性を忘れてきたひとつの現実性がいつ創り出されようとも、常に一人のキリストが存在しています。

そのキリストは自発的に現れて、キリストになるためにもう一度誕生し、道を明らかにする者になるために再びその現実性の中に誕生します。


この現実性の中で、皆さんは数多くの教師を所有しています。

何世代もの間、皆さんは数多くの霊的指導者、高位の指導霊と呼んでいる存在達を持ち、また数多くの教師達を持ってきました。

皆さんの中を歩いている教師、皆さんの教師となっている友人達です。


そしてそれ自体を忘れてきたそれぞれの現実性の中で、何時も現れるひとりのキリストが存在しています。

多くの場合、キリストの誕生は特別な日として讃えられます。

繰り返しますが、キリストの誕生を祝う人々は、彼らもまたそのキリストであること思い出す機会を持つことになります。

そして彼らは同じ根源からやってきたことを思い出す機会を手にします


ですから、皆さんが悠久の時間と理解している中で、賢明な存在として評価されてきた異なる人々として、数多くのキリストが存在してきました。

キリストはもう一度皆さんに、身体は皆さんを封じ込めていないことを明らかにするために、この世界に現れてきました。

皆さんが身体を使うのは、歩くためであり、話すためであり、場所に向かうためであり、神性を表現するためですが、しかし皆さんは身体ではありません。そして皆さんはその人格でもありません。


皆さんが愛されようとしてどのようにその人格を形成しようとしても、それは基本的な動機です。

皆さんはその人格として存在していません。

皆さんはその身体を活性化している霊です。

皆さんは、何時ももう一度故郷に向かうこと、皆さんという本当の存在を理解すること、そして光の中で生き、この世界の中を軽やかに歩むことを望んでいる霊です。


皆さんが聖なる日として確保してきた日に、朝皆さんが最初に目覚めた時に、その日皆さんがしなければならないものに思い巡らさないことを、皆さん自身に許してください。

“朝食は何を食べようか?まだ包装してない贈り物はなんだろう、何処に行くことになっていた?”、と最初に考えないようにしてください。

皆さんがこの世界の砂場で遊ぶという経験ができるように、皆さんの聖なる霊に、皆さんと言う無垢なるキリストの子供に感謝を捧げるために、その朝の最初の数分間を割いてください。


キリストの神聖を感じることを皆さん自身に許して下さい。

皆さんが聖なる日として確保してきたクリスマスの日に、もう一度記憶に留めるために、皆さんというキリストは、今誕生しているところです。

それから、その祝日の翌日、皆さんが朝目覚めた時、皆さんが誰であるか思い出してください。

“あれ、もう一度自分の誕生日だ”。

そして皆さんは365を経験することができ、そして毎年365日の誕生日を経験することができます。


そして、皆さん自身に光を感じることを許してください。

聖なる日に、そしてその日以降毎日、朗らかに進むことを許して下さい。

それで皆さんの世界の見方が違ってくるでしょう。

他の人々の皆さんの見方が違ってくるでしょう。

もしも彼らが皆さんを朗らかに生活していると確認すれば、彼らも励まされて自分のこころの中を見詰め、光の道筋を歩くようになるでしょう。

何故なら、物質的な姿でさえ、本当の皆さんは姿態と合体した光のエネルギーとして存在しているからです。


初めに、時間が現れる以前に、ひとつの想いと伴にキリストが誕生しました。

それは時間の外であり、皆さんが創造として理解しているもので外でさえありました。

広がって行き、その想いという光を表現するための想いです。


光は象徴として用いられています。それは物質的な属性です。

ですから、もしもわたくしが物性を知らない他の存在達に他の現実性と他の次元の中で話し掛けるとすると、光という実例は用いません。

しかしこの現実性の中の皆さんにとって、光は、物性に属する神聖なものと理解されています。


初めに、始めようとする想いが存在する以前に、キリストが存在していました。

わたくし達はそれを創造的な原理と呼ぶようになるでしょう。

前に進もうとするその想いは、決して終わることはないでしょう。

時間の目的が成就された時、皆さんは過去の時間を進み続けるでしょう。

そして時間の中で、それが成就された時、皆さんは皆さん自身がまだ存在していることに気付くでしょう。

自由、歓び、明るさという真実の祝福が存在するでしょう。

それは物質的な明るさではなく、すべての姿態という創造的原理の中で、ただ存在し、探検し、経験し、表現する術を認識している霊の明るさです。


皆さんは今年、簡素に暮らすことができています。

皆さんの聖なる日々を簡素と歓びの内に過ごすようにしてください。

皆さんが一番大切にしている才能は愛という才能であることを本当に認識してください。

そして他のすべての人々が最も大切にしている才能は、愛されて存在するという才能であることを認識してください。

与えるという最も高価な才能を皆さんが持っているかどうかは問題ではありません。

問題となるのは、その才能をどのように与えるかということです。

問題となるのは、皆さんが与えることを歓んでいるかということです。


皆さんが愛を思い出す度に、皆さんはキリストを生み出しているということを認識してください。

皆さんが数々の生涯で親になることを、新生児を産み出すことを、その子供を皆さんの腕の中に抱き締めることを、そして無邪気な愛でその子供の目を除きこむことを、皆さんが数々の生涯で自分自身に許しているように。

皆さんは、“今、わたしは何をしているんだろう?”、と疑問に思いました、皆さんは彼らを愛しています。

皆さんは彼らを大切にしています。

皆さんは彼らが皆さんの人生に存在していることを感謝しています。

皆さんは皆さん自身の子供達と伴にそう感じることができます。

皆さんは誰かの子供と伴にそう感じることができます。皆さんは皆さんのキリストの子供と伴にそう感じることができます。


クリスマス、時間が存在する前に生じたキリストの誕生の本当の物語は、ただ想いから生じたものであり、今でも自分達の神性を忘れてきた数多くの現実性の中で起っています。

すべての現実性が自分達の神性を忘れているのではないからこそ、忘れてきた人々のために、わたくし達は現れ、皆さんはすべての現実性を表現し、経験しているキリストの資質に属する人々を思い出すために、この世界に現れています。


ですから、時間が始まる前に行われたように、そして宿屋の後ろの馬小屋の中でわたくしが行ったように、簡素さの中で、歓びの中で、キリストを意識的に愛し、経験し、産み出してください。

皆さんが愛を認識することを望んだ時は何時でもわたくしに声を掛けてください。

わたくしは永遠の愛で皆さんを愛してきました。

それは、皆さんはわたくしの子供だったからです。

皆さんは何時もわたくしの子供、わたくしの聖なる子供です。


そうあらしめよ。
So be it.

聖母マリア。
- Mother Mary
in expression through Judith


Copyright © 2007 Oakbridge University. www.oakbridge.org.
http://lightworkers.org/channeling/121206/mother-mary-true-christmas-story

翻訳:森のくまさま...ありがとうございます

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