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サナンダ : 2017年6月24日 [サナンダ・クマラ]

 

サナンダ

Sananda 

 

2017624

June 24, 2017

 

パメラ・クレーバ経由

Via Pamela Kribbe

 

 

 

親愛なる同じ志を持つ仲間達、

Dear like-minded friends,

 

 

話しているわたしはヨシュア。

 

皆さんは、わたしの兄弟姉妹です。

 

わたしは、皆さんの上の高い地位にいる者としてではなく皆さんと等しい一人の友人、同僚として、ここで皆さんに参加しています。

 

わたし達がそれを通して結び付けられている、その同じ源泉を感じてください。

 

わたし達の間に流れるその生命を、わたし達を癒し自由にするその結び付きを、感じてください。

 

 

皆さんがこの集いの中で他の人々に対して行う場合と同じように、皆さん自身を尊重してください。

 

事実通りのありのままの皆さんと、この地球上の今ここで血肉を持つひとつの中にいる今回の旅の中で皆さんが引き受けてきた物事を自覚することによって、皆さん自身を評価する数々の手段を、尊重してください。

 

それは、ひとつの確信の飛躍でした。

 

そして皆さんの内部の奥深くには、それによって皆さんがここにいることを選択した、ひとつの信念、ひとつの勢い、ひとつの深い意識があります。

 

ひとりひとりの皆さんが、今回の転生、皆さんの現在の人生に対して、はい、と口にしました。

 

はいと口にしたその瞬間は、とても深い認識に基づいていました。

 

それにもかかわらず、他の地上の人生の経験に起因する古い数々の記憶のせいで、今も数々の疑いが依然として浮上し、それが曇った曖昧になる状況を引き起こしています。

 

皆さんは、今回の地上の冒険の中で道に迷った、ひとりだ、そして見捨てられたと感じてきました。

 

わたしは、わたしが経験したことがあるこの痛みを、認識しています。

 

 

わたしは、今まであらゆる物事を認識する啓発されたひとりの聖人として描かれてきました。

 

それはそのようなものではありませんでした。

 

何故なら、わたしは深い疑いと怖れを認識していたからです。

 

今それが皆さんの旅の不可欠な部分であるように、それはわたしの旅の不可欠な部分でした。

 

そのため、わたしの不完全さ、わたしの不具合の中で、わたしを理解してください。

 

わたしが地上で生きた時、わたしはわたしが証言したかったひとつの光に触発されました;言葉を超え、愛、驚き、美しさ、面白さ、そして叡智を含む、ひとつの光です。

 

それはわたしに起因するものではなく、まさに今の皆さんに当てはまるように、わたしを通した存在から与えられたものです。

 

しかしわたしはまた、皆さんと同じように、わたしの周りの人々からの理解の欠如、認められていないという感覚を経験することを通して、深い絶望を感じました。

 

それが、わたしがとても孤独な人々に手を差し伸べた理由です;肉体的にも情緒的にも痛みを感じて絶望していた人々、霊的な荒れ地の中にいる自分自身に気付いていた人々です。

 

わたしは、こうした人々を理解することができました。

 

何故なら、わたしは、わたし自身の内部で、その人々が経験していたその情緒、想い、そして考えを、経験していたからです。

 

 

人間の経験は、ここで皆さんの光が輝くために、その高みと深みのすべてと伴に、必要なものです。

 

皆さんが今皆さんの人生の中で闇として、暗影として、障害物として経験するもの、そのすべては、皆さんの旅の不可欠な部分です。

 

それは、皆さんが回避しようと試みるべきひとつの障害物ではありません。

 

それは、まさに皆さんが内部からひとつの石に光を当てて、それをひとつの美しい宝石の原石にすることができるように、こうした物事を受け入れて、皆さんのこころの光をそれにもたらそうとする皆さんの能力を上回るものを目的にしています。

 

それは、皆さんがそれに向かうように定められた仕事です:その闇を経験し、内側からそれを理解し、そして次にそれに光を当てて、人間の経験のすべての範囲を潜り抜けることであり;それを意識で包み込んで、それを徹底的に感じることです。

 

その時、キリストのエネルギーが、ひとりの人間の中で目覚めます-そして人間でいることは、これが起こることが求められます。

 

皆さんは、人間の経験の抵抗と深みが欠如している高度にエーテル的な領域の中では、そのエネルギーを、その特別な固有の力とキリストのエネルギーの煌めきを、発達させることはできません。

 

その時、外見的に皆さんを引き止めるもの、皆さんに抵抗を引き起こすもの、皆さんを失望させるまたは悩ますもの、そして皆さんの運命として皆さんが間違いなく激しく忌み嫌うもの、皆さんが今ここにいるその目的、それを、確認してください。

 

 

別の人間が内部から啓発する援助をすることは、魔法のようなひとつの経験であり、その時その人は、数々の奇跡を起こすことができるひとりの存在になります。

 

奇跡、そして突然の物質的な癒しと精神的な癒しという点に関して、わたしについての数々の物語があります。

 

しかしわたしが手にしたその力は、ひとつの奇術師に関する物語ではありませんでした;それは、それを通して数々の奇跡が起こるひとつの神秘的な奇術ではありませんでした。

 

わたしは、その機が熟した人々、その人々の人間性に関するわたしの深い理解を通してその内面の水準でのひとつの突破口を経験することを目指した人々に、手を差し出すことができました。

 

わたしは、その人々のありのままの姿、その人々の否定的または肯定的な側面について、断定的に判断しませんでした;わたしはただそこに居ただけです。

 

そして、自分達のわたしとの接触の中で愛を経験した人々がいて、その愛がその人々を損傷の無い状態にしました。

 

それはまるで、その人々の本質が、突然目覚めるように呼び出されたようなものでした。

 

そしてそれは、そういったひとつの奇跡的な瞬間の中で起こることです。

 

それは実際にわたしが行ったことではありませんでした。

 

それは、わたし達との間の交流の中で起こった事でした。

 

 

わたしがキリストの光を受け取り、それを他の人々に手渡すことができる状態を可能にしたものは、わたしが隠し事をしなかったという事実です。

 

そしてわたしが話の対象にしているこの開放性は、ひとりの人間として、ひとつの難局の経験を通して、かなり頻繁に達成されるものです。

 

皆さんは普通、皆さんが実際にキリストの光にこころを開く前に、起こるかもしれず起こらないかもしれない、あるいはそうあるべきまたはそうあるべきではない、すべての種類の信念に熱中します。

 

皆さんは、沢山の情緒や想いを創り出す数々の発想や思考パターンで溢れています。

 

皆さんは、皆さんがそれを回避する整然としたやり方を見付け出すことができないこれほど膨大な物事に突き当たるまで、そういった発想や思考パターンから、皆さんの世界を形作ろうとします。

 

そしてその時、皆さんの確実性、皆さんの信念や思考パターンのすべてが、押し流されます。

 

皆さんは、ひとつの深い穴に転落します。

 

そしてこれは、圧倒的な量の怖れを噴き出すことがあります。

 

 

また皆さんは、これを魂の闇夜と呼ぶこともできます。

 

そしてそれは、身の毛がよだつひとつの経験です。

 

それと同時に、皆さんが開放的になり、もはや皆さんは正しいやり方を認識しないことを自覚する可能性があります。

 

そしてその時、皆さんのある部分は諦める一方で、別の部分は開放的になります。

 

諦める部分は防御的で抵抗する部分であり、それはいつもさらに良く認識していると考え、性急で、あらゆる種類の人生に起因する物事を望み、要求します。

 

その部分は、しばしばひとつの危機の中で消え去ります。

 

そしてもしも皆さんが敢えてその部分を消し去るなら、その光は内部で輝き始めることができます。

 

皆さんはここで、ひとつの危機の経験、あまりにも多すぎて消化できない物事もまた、その光に対するひとつの開放性のための潜在能力を持つことを、確認することができます。

 

しかし、それは非常に強烈な経験です。

 

何故なら、その消え去る部分は消え去ることを望まず、しがみ付くことを望み-そのため抵抗するからです。

 

 

わたしは皆さんに、皆さんの光に反対し、一般的にその光に抗う、皆さんの中のその部分を思い起こすことを求めます:皆さんを通して淀みなく流れることを望む、大宇宙の光です。

 

皆さんの中の何かが、その可能性に対してそれ自体を護ることを望みます。

 

そのため、皆さんを通して、皆さんの身体のすべての部分を通して簡単にそして自由に流れて世界に出て行くその光を思い描くようにわたし達が皆さんに求める時、できればその躊躇いを感じてください。

 

この心象は皆さんの中で何を呼び起こしますか?

 

皆さんは、その可能性を認めることができますか?

 

皆さんは、それはいつも可能であると感じますか?

 

あるいは、皆さんの中に皆さんが護り庇うことを望む何かがあるでしょうか?

 

そして、その保護的な部分に目を向けて、ひとつの防御として皆さんの前にあるそれを、確認してください。

 

皆さん自身に、何故わたしにはこの防御が必要なのか?、と尋ねてください。

 

この防御性を深刻に受け止めてください。

 

何故なら、皆さんの中に、この防御を所定の位置に置くことを必要とする何かがあるからです。

 

その防御はいつもひとつの目的を持つため、皆さんの中のその部分を尊重してください。

 

それは、皆さんの非常に脆弱な部分を保護しようとしてそこにあります。

 

 

皆さんの中のどの部分が、その光を認めなくなるのでしょうか?

 

皆さんの中のどの部分が、余りにも多すぎて尋ねることができないもの、あるいは身の毛がよだつもの、あるいはさらに危険なものとして、それを経験するのでしょうか?

 

そして、皆さんがひとりの子供だと考えて、この部分に穏やかに近付いてください。

 

失望してしまったひとりの子供、その生命のエネルギーを内側に向けてしまったひとりの子供として、それを理解してください。

 

とても穏やかにこの子供に近付いて、そしてその美しい姿を確認してください。

 

それは、極端な脆弱性と防御性さえ携えながらも、依然として美しさを放ちます。

 

この子供の前に跪き、皆さんの寛容さと親切さでその子供を包み込んでください。

 

その子供が変わることを望むことなく、あるいはその子供に何も強要することを望むこともなく、穏やかな容認で跪いてください。

 

寛いだやり方で、この子供と一緒に静かに腰を下ろして、そして、皆さんがその防御の場所を引き受けることができる姿を感じてください。

 

今に至るまで、その子供は皆さんと外部の世界の間にあるこの防御的な障壁によって守られてきましたが、しかしこの盾もまた、皆さんと皆さんの最も深い感覚の間にあるひとつの障壁です。

 

 

皆さんがこの盾がある場所を引き受けることができるかどうかを、その子供に尋ねてください。

 

その子供に単純に尋ねてください:あなたはわたしがあなたの面倒を見ることを許しますか?それであなたは大丈夫ですか?

 

誠実にそして率直に尋ねてください:わたしはあなたを充分に守っていますか?。そしてその子供に自由に話をさせてください。

 

もしかするとその子供は、こう話すかもしれません:ちがう、わたしはちっとも安全じゃない、わたしは怖い

 

その子供が必要とするもの、あるいは、その子供に安全だと感じさせるために皆さんができることを、尋ねてください。

 

これを行うために時間を掛けてください。

 

何故なら、皆さんは、何度も繰り返し、皆さんの内面の子供とこの会話をする機会を持つことができるからです。

 

それはひとりの生きている存在であり、沢山の愛を持ち運び、そのため与えることができる沢山の愛を持つ、皆さんの一部です。

 

しかし、その子供は地上で安全だと感じるべきであり、それが皆さんの穏やかさと誠実さが必要になる理由です。

 

 

皆さんが皆さんの内面の子供を保護し護ろうとして防御の障壁、盾を設定してしまった時、皆さんは、もはや意識的にその子供と結び付いていません;その子供は、皆さんから隠れてしまいます。

 

皆さんは、例えば守勢から突き進むか、あるいは皆さんの人生の特定の時期に閉じ籠ります。

 

そして皆さんは、これが起こっている理由を認識しません。

 

皆さんは、怒り、あるいは失望し、あるいは落胆することがあります。

 

そしてこれは起こる時、その理由は、皆さんとその内面の子供との間で、機械的に反応するパターンが作動するからです。

 

この皆さんの内部の脆弱な子供との結び付きを新たにして、何度も繰り返し会話を始めることによって、皆さんは徐々にこうした機械的な反応のパターンを解消するひとつの方法-防御的な障壁-を見付け出すことができますが、しかしそれは、皆さん側の我慢強さと穏やかさが必要になります。

 

そしてその子供は、皆さんが、皆さんのこの脆弱な部分は回避または克服しなければならない障壁ではなく、そして排除すべきものではないことを非常に深く理解することを求めます。

 

 

それは、その子供を理解と愛で包み込むことによって、この子供を経由して、皆さんが成長することを、そして次に、キリストの光が皆さんの中で目覚めることを、意図しています。

 

堅苦しい発想や断定的判断や信念、そして永遠に皆さんが必要だと考えるもののために永遠に勉め格闘する状況は、消え去ります。

 

その代わりに、今皆さんの中には、配慮と驚きを通して何度も繰り返し皆さん自身を満足させようとする、積極性と開放性があります。

 

皆さんが驚くのは、既に皆さんが必要とするものと皆さんにとって良いものを認識していると考えることに対してではなく、皆さんは、敢えて皆さんの内面の子供の答えに対して、驚きます。

 

 

これが皆さんの道筋です。

 

何故なら、その魂は人間の経験から学ぶものを手にするからです。

 

時に皆さんは、天国を、魂がそこに属する世界を、ひとつの完璧な世界として、しかしまた皆さんが今まで追放されていたひとつの場所として、理解します。

 

その時皆さんは、不完全でしばしば異質な世界、これほど数多くの情緒が皆さんを押し潰す地球の中で生き残ることを強いられました。

 

そしてこれは、ひとつの罰のように感じます。

 

しかしそこから皆さんが現れた領域、魂が属する世界もまた、いずれも完璧ではありません。

 

本質的なことはそこで見失われます。

 

そして今まで皆さんがいつも転生に向けて確信に基づく賭けを選択してきたのは、これがその理由です。

 

それは生命それ自体-特に地球上で可能な-この手探りの探求、この深く強烈な経験の方法であり、それを通して、皆さんの理解、皆さんの我慢強さ、洞察力、そして思いやりは、深く実質的なものになります。

 

それが、地上の人生の霊的な意味です。

 

皆さんがここで経験することができる完璧さの一瞥-しばしば簡素な瞬間の中か、あるいは洞察力を通して、あるいは純粋な楽しみと美しさというひとつの経験の中で-そういった一瞥は、単純に天の数々の領域の中で何年もの間陶酔した状態でいるよりも、さらに多くの重みを携えます。

 

 

より少ない抵抗とより少ない起伏で調和した雰囲気の中にいることは、確かに素晴らしいことです。

 

そして皆さんは、それを切に望みます。

 

しかし、地上の人生の、今皆さんが経験しているものの美しさと深い霊的な価値を、否定しないでください。

 

皆さんが数々の光の領域に向けてここで体験するその経験、その叡智、そして突破口を、受け止めてください。

 

それでそういった領域は、これからはそのおかげでさらに多くの実質とさらに多くの活き活きとした特性を獲得することになるでしょう。

 

地球の領域と反対側にある領域の間には、継続する交流があります。

 

皆さん自身の人生を、価値あるものとして宝物にしてください。

 

皆さんは勇敢であり;皆さんは力強く活動し;そのように皆さん自身の光を認めてください。

 

 

わたしは、ここでわたし達が一緒にいることを楽しみます。

 

わたしがここにいる時、たとえわたしがひとつの身体の中にはいないとしても、わたしは幾つかの小さなやり方で人間になります。

 

そしてわたしはもう一度、人間でいることの意味を、その通り、その重荷を、しかしまた、明るさ、友情、そして団結の瞬間を、思い出します。

 

それは魂に深く触れます。

 

地上で築き上げられた友情の絆は、魂と一緒のままであり、自分達の努力を永遠に続けます。

 

そのため、地上の人生は、貴重なものです。

 

 

わたしは、一緒に居ることに対してすべての皆さんに感謝し、そしてわたしのこころから、ひとりひとりの皆さんに挨拶を送ります。



Translation by Maria Baes and Frank Tehan.
» Source – Channel: Pamela Kribbe

http://sananda.website/sananda-via-pamela-kribbe/










翻訳★森のくまさま...ありがとうございます。

転載される場合には、出典を明記してください。

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