ヨシュア・ベン・ヨセフ(イエス) : その覆いの解消 [イエス:ヨシュア]
Jeshua ben Joseph (Jesus)
Dissolving The Veil
by cosmicgaia in Jesus/Jeshua/Sananda, Judith Coates
ジュディス・コーツ経由
Channeled by Judith Coates
April 2015
最愛なる者、これからわたし達は、分離という覆いを見抜く方法について、そしてかなり現実的に見えるこの次元から表面的な覆いを超えて大文字の“R”である真の現実性へと移動する方法について、話をすることになります。
皆さんは、“わたしは誰だ?何故わたしがいるのか?
わたしは何処にいるのか?このすべての目的は何か?”、ということについて知ることを望みます。
小さな子供が質問を尋ね経験する必要があることと同じです。
皆さんは、人生がそうなり得る姿について数々の疑問符を持ち続けていて、そして皆さんは、“人生にはわたしがまさに経験している人生よりも多くの物事があるのか?”、と疑問に思っています。
そして皆さんは、その答えが“その通り、さらに沢山の物事がある”ことを認識しています。
それでわたしは、その覆いを解消する最初の段階は、さらに多くの物事があることを認識し、信じ、受け入れようとすることだ、と皆さんに伝えます。
さて、今後数多くの兄弟姉妹達が、皆さんにこう伝えることになるでしょう。
“これは存在するすべてだ。あなたは生まれ、成長し、特定の年数を生きて、そしてその結果、もしもあなたが幸運なら、あなたはベッドの中でその身体を穏やかに絶命させることができる。”
もしそうでないなら、皆さんは事故と呼ばれるもの、あるいは皆さんに起る何かを経験するかもしれません。
実際に、皆さんが皆さんの経験の中に存在するように頼んでいなかったことは、決して何事も起りません。
しかしおそらく今後皆さんがその物質的な目で皆さんの目の前でまさに確認するものよりも遥かに多くの物事があることを認めることになるように、既に皆さんは、わたしがそう呼んできたようなその覆いがそこにあり、目覚めの経験と呼ばれるものを皆さんが経験する度にそれが事実通りさらに薄くなっていることを認める、その最初の段階を踏んでいます。
第二段階-第一段階がさらに多くの物事があることを認めることでした。
第二段階は、瞑想に時間を費やして、外見の領域の外部で時間を過ごし、内面に向かうことです。
既にわたしは皆さんに、皆さんは少なくとも毎日瞑想に15分を費やすことを勧めています。
そしてできれば、わたしが何度も伝えてきたように、皆さんが15分を費やす時に、かなり心地良く感じて皆さんはより多くの時間を望むようになり、そして皆さんは30分を費やすようになるでしょう。
さて、皆さんが慌しい日程を持ち、そして皆さんが少なくとも毎日8時間かもしかするとそれ以上の時間を費やすことを期待する雇い主を持つ可能性があることを、わたしは認識しています。
しかし事実通り皆さんを雇っている者は、言い換えると皆さんのさらに高い自己は、最初からではなく、しばらく経った後で、皆さんが少なくとも15分、30分、もしかするとできるならそれを拡大して1時間を瞑想に費やすように示唆することを、わたしは伝えたいと思います。
それは、皆さんが経験するすべての経験のようなものです。
皆さんは短い時間の訓練から始めて、そして次に皆さんは、皆さんがその練習を続けることができる時間を積み重ねます。
瞑想もそれと同じことです。
何故なら、人が静かに腰を下ろして内面に向かう時、皆さんが今まで育ってきた状況からすると、それを経験することはとても奇異に感じます。
時に皆さんは少し不安になり、そして皆さんは立ち上がって何かすることを望みます。
何故なら、それが皆さんが今までいつも経験してきたことになるからです。
そのため内面の静かな空間に向かうと、意識は皆さんに、皆さんは“時間を浪費している”、と伝えることになるでしょう。
皆さんは立ち上がって何かをするべきだ。
しかしそれは世界のやり方であり、そしてそれは世界の言葉遣いです。
それで皆さんはその声に、“分かった、後で”、と伝えます。
そして次に皆さんはしばらくの間そこに腰を下ろして、皆さんは耳を傾けます。
それが皆さんがしなければならない全てです。
心地良い姿勢で腰を下ろすこと、そして皆さんがその姿勢から抜け出すことは、それ自体単純なことです。
おそらく他の姿勢よりもさらに聖なる特定の姿勢があることを、わたしは認識しています。
しかし皆さんに伝えますが、もしもそれが心地良くないなら、身体は皆さんに向かって叫び声を上げ始めるようになり、そしてその結果、皆さんは身体に注意を払わなければならなくなります。
従って、皆さんが静かになることができて、皆さんが内面に向かい耳を傾けることができる心地良いひとつの姿勢を見付け出してください。
最初はおそらく、皆さんはどのような素晴らしい啓示も経験することはないでしょう。
おそらく高い確率で、皆さんはこう口にすることになるでしょう。
“さて、それが何らかの価値があるかどうかわたしは知らない。わたしがわたしの従弟のハロルドについて考えて、そしてわたしが特定の冒険や挑戦を経験しているわたしの友人について考えたことを除いて、実際にわたしに何も現れなかった。”
最初は数多くの発想や考え、映像がこころを通り過ぎます。
それで大丈夫です。
そういった発想やそういった考えを止めようとしないでください。
何故なら、皆さんが止めようとする時、皆さんはすべての発想を止めようとすることに意識を集中しながら、その意識が非常に慌しくなるからです。
そのため、すべての考えが通り過ぎることを許してください。
それに時間を掛け過ぎないようにして、しかしその発想が通り過ぎることを許してください。
意識がそれ自体を使い果たすことを許してください。
そしてその結果皆さんは、その静かな場所に到着することになるでしょう。
最初の何回かは、もしかすると数回よりも多いかもしれず、皆さんがこれを試そうとする時、皆さんは皆さんの注意を引きたがる数多くの異なる発想や考えを経験することになるでしょう。
そのため、皆さん自身に無愛想にならずに、言い換えると、皆さん自身を許してください。
そして今後皆さんがこれを実践する時、これは事実通り皆さんが皆さん自身に与えたひとつの贈り物、静かな時間というひとつの贈り物であることを今後皆さんが認識するように、たとえ皆さんが最初に素晴らしい啓示を経験しないとしても、少なくとも皆さんは既に身体が休息することを許していて、そしてその中に沢山の恩恵があります。
後になって、皆さんはひとつの声を聞くようになるか、皆さんがひとつの発想を認識するようになることに気付くかもしれません。
意識の活動に従って仕向けられなかった何かが、皆さんのところに現れることになるでしょう。
それは、皆さんにそれ自体を示唆する何かになるでしょう。
耳を傾けてください。
分析しようとしないでください。
ただ耳を傾けるか、ただ理解してください。
何故なら、皆さんは視覚的な特徴を持ち、そして皆さんは視覚的な経験をする可能性があるからです。
もしも皆さんが聴覚的な特徴を持つなら、皆さんは何かを聞くかもしれません。
しかし何よりもまず、注意を払ってださい。
意識に何かが現れる時、皆さんはそれに気付くことができます。
そしてその時、みなさんはそれを通過させることができます。
もしもそれが重要なら、それは皆さんのところに戻ってくるでしょう。
もしもそれが重要では無ければ、それはただ通過しているだけであり、そのまま通り過ぎて行くでしょう。
皆さんが思い切って受け入れる状態になるなら、皆さんのところに来ることができる沢山の物事があり、そしてしばらくしてから皆さんのところにやって来でしょう。
最初は、何か新しい物事が一緒に現れるようなものであり、奇異に感じることになるでしょう。
それは、“わたしが立ちあがって他の何かができる時に、何故わたしはこうすることに時間を費やしているのか?”、というように感じるでしょう。
しかし皆さんが敢えてさらに深く静寂と静かな声の内部へと進む時、新しい言葉の啓示が皆さんのところに現れます。
最初は、数々の新しい世界、そして次はその後で何もない空間、ただの癒しの空間、ただの認識の空間、考えで満たす必要がない愛の空間が現れることになるでしょう。
皆さんはしばらくの間そこに留まることになり、そしてそれはとても気持ち良く感じるでしょう。
皆さんが何も考えず、何も疑問に思わないという感覚に到達してしまって、ただ空っぽになって心地良く感じている時、皆さんは皆さんが皆さん自身のために設定してきたその覆いを通過しています。
その覆いは、こう口にします。
“これがそこにあるすべて、ただその外観だけであり、わたしの友人やわたしが経験しているすべての活動だ。”
既に皆さんは、皆さん自身のためにさらに重要なひとつの経験を設定しています。
皆さんは、この小文字の“r”の現実性の認識を超えたその場所を経験しています。
皆さんが空っぽのように見え、そしてそれにもかかわらず外部のように見えるその空間の中にいる時、それは皆さんが宇宙のすべてと太陽系の間の深宇宙と呼ぶものであり、皆さんは未知なる領域にいると感じるものに入り込んでいます。
そしてそれにもかかわらず、それは皆さんが良く認識するひとつの状態です。
それは愛というひとつの空間、気が付くと皆さんが愛の中で受け入れられているひとつの空間です。
皆さんは、その空間に他の誰かのある発想を持ち込むかもしれませんが、しかし実際には、それは自己の愛、皆さんという聖なる自己です。
そしてそれから皆さんは、幸せ、歓び、満足という圧倒的な感覚を感じることになるでしょう。
さて、既にわたしが伝えておいたように、皆さん自身に無愛想にならないでください。
もしも最初の日、最初の週、最初の月にそれが内部に現れないとしても、“嗚呼やれやれ、試してみたけれど、上手く行かなかった”、と考えないでください。
それはしばしばわたしが人々で確認することです。
それはある程度の訓練、こう口にするある特定の空間が必要になります。
“その通り、これはやり甲斐がある。わたしはそれをやり抜く。”
それはそれだけの価値あるという事実を、わたしは皆さんと共有することになるでしょう。
それは、わたしがひとりの未熟な少年だった頃にわたしが認識したものでした。
そしてそれにもかかわらず、それはわたしがわたしの経験の中で継続しなければならないことでした。
わたしが非常に静かで深い瞑想の価値を認識していた両親、友人達、そして教師達を持ったという点で、わたしはとても幸運でした。
わたしが若く活発な年頃だった時でさえ、ただ静かにしていることで大丈夫だと、彼らはわたしに言いました。
今、若い人々は静かにしていることが本当に好きではありません。
若者達は直ぐに注目を集めることが好きであり、その声を試してみるのが好きです。
そのため、わたしが伝えておいたように、自分に無愛想にならないでください。
それは事実通り達成する価値があるひとつの目標です。
皆さんが皆さんの世界の中でこれを教わらないことを、わたしは認識しています。
皆さんの世界は、皆さんは行動しなければならない、皆さんは達成しなければならない、皆さんは活動的でなければならない、と言います。
しかし、実際には、皆さんが既に身体を解き放った後で皆さんが一緒に連れて行くことになる大切なものは、皆さんがいつでも守られている愛についてのひとつの認識です。
そのため事実通り、皆さんがその身体を解き放って皆さんが皆さん自身の光に向かう時、皆さんは愛に向かい、そして愛は、皆さんの容認をいつでも待ち続けています。
愛は、その瞑想状態の中で待っていて、そして皆さんに容認の感覚、世界が認識しない値打ちについての感覚を贈ることを望みます。
その空間の中で、皆さんは皆さんの真の自己に気付くことになるでしょう。
皆さんがしばらくの間その空間の中で過した後... そしてそれはしばらく時間がかかるか、またはそうではないかもしれず、そのためわたしは皆さんに、それはひと月または一年が必要になると伝えることは無いでしょう。
それは行動、実践、静かな空間に滞在することが必要になります。
そして次にしばらく後で、皆さんはどのような外見やどのような描写も超えている皆さんの真の自己に気付くことになるでしょう。
わたし達は愛の空間を描写するために数々の言葉を使うことができますが、しかし愛の経験は別の話ではないでしょうか?
皆さんがその空間の中に入り込んで、皆さんがまさにあらゆる人を愛する時、既に皆さんは皆さんの真の自己、世界が評価せず、価値を認めないひとつの自己に気付いています。
皆さんは愛の中で生きていることに対して、世界から見返りを得ることはありません。
皆さんが現在の世界を理解するように、まさにその正反対の状況が本当です。
しかしわたしは皆さんに、希望を持つように伝えます。
何故なら、皆さんが皆さん自身の内部で愛に気付いている時、そして皆さんがさらに高い自己の愛を経験する時、皆さんは愛を理解せず評価しない世界にさえその振動を発していて、皆さんは世界それ自体を変えているからです。
愛の中で生きることがどのように感じるかを皆さんが思い出し、そして兄弟姉妹達が思い出す時が訪れているところです。
達成する必要が無く、皆さんが人生の梯子を登る時に有能になって他の人々に勝る必要も無く、ただあらゆる人が心地良い空間の中にいることが必要なだけです。
あらゆる人が、時間が始まる前から存在している永遠の愛で愛されます。
そしてその愛は、時間の目的が達成された後でさえ持続することになるでしょう。
時間はまさにひとつの目的を持ち、そして時間はいつも存在するとは限らないでしょう。
ひとつの時期、時間の外部、皆さんがもはや時間という概念や時間が皆さんに強いる数々の制約を必要としなくなる時期、皆さんがまさに皆さんという存在である神聖なる自己になり、愛の中で皆さんのありのままの姿と役割、神聖なる自己を受け入れられる時期が、訪れることになるでしょう。
世界が皆さんに与えた固有性ではありません。
何故なら、その固有性は過ぎ行き、儚いものであり、普通は断定的判断に溢れているからであり、しかし皆さんの自己は永遠に持続し、永遠に愛の中にいるからです。
それが皆さんのありのままの姿であり、そしてそれが、皆さんが瞑想の実践を行うに連れて、今後皆さんの意識の中で実現することを皆さんが自覚するようになるものです。
皆さんがその空間に、わたしが今まで説明してきた愛の空間に入る時、皆さんはそこで皆さん自身を愛し、あらゆる人を愛します。
皆さんは、愛というひとつの目的を持つ必要さえありません。
それは、まさにひとつの愛の海です。
皆さんはかなり心地良く感じるため、しばらくの間そこにいます。
次に皆さんは、世界の数々の命令の外側に、愛だけを認識する他の一体となったひとつの領域があることを自覚し始めます。
そして皆さんは経験することができるその空間に入って行き、既にその領域に入っている他の人々に声を掛けます。
その人々は、その身体を引き摺り回す必要が無くなり、それを身に着けて養い、身体の全ての要求に気を使う必要も無くなったため、その身体を解き放つことによって、その領域に入りました。
その人々は、気が付くとひとつの巨大な愛の空間の中にいます。
皆さんが既に“臨死体験”を持つ人々の物語を聞いているのは、これがその理由です。
その人々がそこで人間の人生に戻りたくなかった理由は、愛がそれほど心地良く感じ、それにもかかわらずその人々は、世界で、人間の経験の中でやり残していた何かがあることを、またその人々が達成しなければならないと望んだか感じたことのどちらかを、認識したからです。
その巨大な愛の空間の中で、皆さんは、皆さんがこころを通い合わせることを望むいわゆる既に亡くなっている最愛の人々の誰とでも、話をすることができます。
そしてそれにもかかわらず、その人々は皆さんから離れるか皆さんと別れて何処かに行きます。
その人々はひとつの巨大な愛の空間に自らを開いているため、その空間の中にいます。
皆さんはそこで、別の時代の数々の霊的指導者達に気付くことになるでしょう。
皆さんが称賛した存在達、おそらく教師達に対して、“もしもわたしがほんの少しでも合うことができたらなら”、と皆さんが話した存在達です。
皆さんは瞑想の中で、身体が機能することを皆さんが認めている間でさえ、これを行うことができます。
皆さんが非常に深い瞑想の空間の中にいる時、身体は身体自体に対処する方法を認識しています。
心臓は鼓動を続けるでしょう。
すべての臓器はするべきことを正確に行うでしょう。
血液は循環を続けるでしょう。
消化器官は消化を続けるでしょう。
そしてその結果、皆さんが身体の意識に戻り、身体に何か対処しなければならない時、身体は皆さんを待ち続けているでしょう。
それでもそれに対するひとつの補足として、非常に深い瞑想に入ったことがあり、身体を再び活性化させることを望まず、そのためそうする必要がなかった偉大なる霊的指導者達がいます。
しかしそれは例外であり、そしてそれは、今後皆さんに起ることではありません。
そのため皆さんは、もしも皆さんが非常に深い瞑想状態になって皆さんの現実性を忘れたとすれば、その結果あらゆる物事が消え去ってしまうと感じる必要はありません。
それは皆さんに起ることはないでしょう。
皆さんはいつも、皆さんがその身体に決着を付けるまで、ひとつの小さな... 皆さんが銀の紐と呼ぶもの、身体への連結を維持しているでしょう。
身体はいつも自発的に解き放たれるものです。
身体は決して皆さんから引き離されることはありませんが、それでも戦争行為に従事している人々の中にあるように、皆さんに大規模な説得が行われるかもしれません。
皆さんは、戦闘に接している人々に関する数々の物語を持ちます。
彼らがそれでも身体を諦めることがない理由は、彼らがそうしないことを選択しているからです。
それでもその人々の隣のその兄弟は、その身体を犠牲にするかもしれません。
そして敵の兄弟も、その身体を犠牲にするかもしれません。
それはいつもひとつの選択です。
人々がその身体を解き放つ時、その人々が全盛期の時の自分の容姿を身に着けることは既に皆さんに伝えられていて、そしてそれはひとつの大いなる真実です。
最も悲惨な容姿だった可能性がある人々は、身体を解き放つ前の最後の数週間の姿ではなく、自分達の全盛期だった時の姿で現れます。
もしも皆さんがただその人々がその身体を解き放つ前の数週間しか知らなかったとすれば、その結果その人々は、最初に皆さんにその全盛期の姿を明らかにすることになるでしょう。
しばしばその人々は、その人々が極めて歓びに溢れ、極めて活き活きとしていた時を思い出します。
何故なら、皆さんと同じように、その人々は今もこれからも、怖れではなく、生命の、霊の生命の全盛期にいるからです。
ご存知のように、身体、そしてまたその個人を疲弊させる物事のひとつは、怖れ、心配、その雇い主が皆さんに話すあらゆる物事、怖れが皆さんはそうならなければならないと皆さんに伝えたあらゆる物事を皆さんが行わなければならない、という考えです。
皆さんの成長期の時に皆さんがある一定の状態にならなければならない、背筋を伸ばして立ち、顔を上げて決して暗い顔をせず、決して過去を振り返らない等々といった、皆さんの両親が伝えたあらゆる物事、“皆さんのためになる”すべての物事です。
しかし実際には、時に成長期のすべての訓練は、少しその精神を疲弊させることがあり得ます。
皆さんがその人生に胸をときめかせ、人生の中で非常にその状態になっている年少の子供、その小さな子供のようになることをわたしが時々皆さんに気付かせるのは、これがその理由です。
皆さんは、人生の持続性についてより多くを認識することを望みます。
皆さんは、“わたしはどのようにして身体に対処するのか?
わたしはどのようにすれば身体をわたしがそうなりたいと思うような状態に戻すことができるのか?”ということを知りたいと考えます。
実際には、皆さんはいつも身体の中で、皆さんが可能だと理解する通りに機能しています。
わたしはこれを、ひとつの断定的判断として伝えている訳ではありません。
ひとつの真実として伝えています。
皆さんの身体は、皆さんが身体に伝えるものに反応します。
皆さんが幸せで、皆さんの身体を大切にする時、身体は皆さんを大切にするでしょう。
皆さんは一体性、創造的な勢いであり、それが身体を活発にしています。
皆さんは任されています。
さて、時に身体が皆さんに言い返して、“やれやれ、それは大笑いだ。
あなたは任されていると考えますか?あなたに明らかにしましょう”、と伝えることを、わたしは認識しています。
そしてその結果皆さんは、足首に痛みを感じるか、お腹に痛みを感じるか、あるいは悲しいことに、頭痛を感じます。
そして皆さんは反応します。
皆さんは習慣から反応します。
そのためわたしは皆さんに伝えていますが、皆さんが巨大な愛の空間の中にいる時、皆さんは皆さんの創造を愛することになるでしょう。
皆さんは皆さんの身体を愛することになり、そして身体は皆さんに対して違った感じを持つでしょう。
それは普通、一度にすべて起ることはありません。
そして既に伝えてあるように、わたしはとても幸運でした。
そして皆さんは、他の数々の生涯の中でも幸運でした。
そういった人生で、皆さんは皆さんを未熟な者として受け入れたひとつの霊的な地域社会の中で成長し、皆さんは皆さんの創造である身体を活性化する神聖なるエネルギーだと認識していました。
皆さんが思い切って瞑想の経験にとても深く入り込み、気が付くと何も分析される必要がなく説明される必要がないすべての愛、ただ愛だけの状態になり、それに付随する言葉を持たない時、その結果皆さんは、皆さん自身のために、聖なる母地球のあらゆる時代のあらゆる時期の誰とでも、そして皆さんが他の転生または転生していない時期にそうだったことがある惑星存在の誰とでも話す機会を持ち、戻って他の数々の生涯の中で皆さん自身を再評価し、期待する通りに他の全ての生涯、転生や非転生の経験を再編する機会を持ちます。
そして皆さんは、気が付くと非常に豊かになっているでしょう。
皆さんは、この時代の中で地球外生命体と呼ばれてきたものと接触を持つかもしれません。
皆さんはこう気付くことになるでしょう。
“嗚呼何ということだ、わたしがひとりの地球外生命体としての経験を持っていたとは。
しかしわたしはわたしが地球外生命体であったことを知らなかった。
わたしはただのひとりの存在だった。
わたしはひとつの意識だった。
しかし他の人々は、おそらくわたしをひとりの地球外生命体として描写しようとする。
何故ならその時点で、わたしは聖なる母地球上で生きていなかったからだ。”
皆さんは事実通り、その小さな原生動物でした。
皆さんは、海の中を泳ぐ魚になったことがあります。
皆さんは、四足の動物になったことがあります。
皆さんは、樹々を通り抜ける最も敏捷な猿だったこともあります。
時に皆さんの内部には、皆さんがもう一度それをしてみたいと思う、ひとつの感覚があります。
“嗚呼、わたしは猿として生きて自由になって、手足から手足へと次々に移って樹々を通り抜けることができた。”
さて、皆さんはその時点で、既に皆さんが持っているひとつの経験を追体験しています。
そうでなければ、その概念、発想、感覚は、どのようにして皆さんの意識の内部にひとつの場所を見付け出そうとするのでしょうか?
それは、既に皆さんがそれを経験しているからです。
皆さんはそうなったことがあります。
人間達は、自分達をそのピラミッドの頂点に配置して、人間はその進化の系統樹の頂点にいると口にしてきました。
さて、わたしは皆さんと共有しようと思いますが、もしも皆さんがそれを受け入れるなら、今からわずか数百年後、おそらく二百年後、もしかすると百年後に皆さんが理解する物事の中で、人間の姿が今の姿と違っていて、そして他に脳として認識されている人間の受容体が、今皆さんが認識するものよりも遥かに受容力があり精神感応的になることができるようになるひとつの進化が確認されているでしょう。
皆さんはその状態に向かっているところです。
そのため数百年の内に、もしかすると皆さんはこの歴史を振り返り、こう口にするかもしれません。
“まあともかく、わたしがその時生きていなくて嬉しい。
物事は比較的にかなり荒削りだった。”
そのために皆さんに伝えますが、断定的に判断しないでください。
断定的判断の余地はありません。
ただ愛のための場所があるだけです。
いつも愛の中にいてください。
瞑想を実践してください。
もう一度皆さんの全体性と結び付いてください。
それでその覆いはもうこれ以上存在しなくなるでしょう。
そうあらしめよ
So be it.
ヨシュア・ベン・ヨセフ(イエス)
ジュディスの表現として
– Jeshua ben Joseph (Jesus)
in expression through Judith
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