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レディ・ポーシャ : 与えるこころ [レディ・ポーシャ]


レディ・ポーシャ
Lady Portia


与えるこころ
The Heart of Giving



6 September 2014 - 3:54am
キャスリン・E・メイ
Channeler: Kathryn E. May

Lady Portia:



仲間の皆さん、このさらに高い数々の領域の中の幾つかの議論の後、わたしは今日皆さんへのメッセージを送る幸運な者として選ばれました。

 

わたし達はすべて、こうしたメッセージを送ることをこれほど楽しみにしていて、わたし達は、皆さんと話ができる時を待ち望んでいます。

 

言うまでもなく、以前にわたし達が皆さんに伝えたように、メッセージが投稿される時に、わたし達はこの交信者を通してすべての皆さんに送ることに同意しています。

 

物事は変わり、そしてわたし達のメッセージもそれに応じて進化しますが、しかしそのメッセージがラーから、サナンダから、サンジェルマンから、あるいはどのような霊的指導者達から送られていようと、わたし達はどのような瞬間でも、わたし達が皆さんに送りたいと思う情報の内容について相談してきたと皆さんが思って間違いありません。


 


皆さんがこうしたメッセージを読むひとつの方法をわたしに提案させてください。

 

最初の頃の情報は非常に情報に主体を置いたものであり、それが与えられた時には時宜に適ったものでした。

 

そのため皆さんは、初期のすべてのメッセージは歴史的に興味深く参考になると考えることができますが、しかし皆さんは現在では正確なものとして利用することはできません。

 

これは、聖書も含めて、さらに高い数々の領域から現れるすべてのメッセージにも当てはまります。

 

サナンダが去年明確にしようとかなり懸命に努力したように、聖書は彼の人生の後の300年後に、その既得権者達が教会の権力を補強し、女性の力を侵食していたひとつの委員会によって地上で記述されたため、その中には数多くの歪みと不正確な記述がありました。


 


ある意味では、それは皆さんがここ数十年の中で目撃してきたもの、秘密結社がそういった期間の間に全力を挙げた状態と類似していました。

 

そして、宗教の間で対立を創り出し、イエスの愛のメッセージの真の力を削り落とすことは、彼らの最もお気に入りの望みでした。

 

イエスが教えた内容の一部は残っていますが、しかしそのメッセージは骨抜きにされて、イエスがほとんど保守的で狭い理想を持った3次元のひとりの人間のように響くようなひとつの状況を提示してきました。

 

これは、その真実からさらに深く進むことはできませんでした。

 

今までサナンダや残りのわたし達に耳を傾けてきた皆さんは、わたし達の人生の光景は、あらゆる点において歓びに溢れ、自由なものであり、寛大で、愛に溢れ、そして断定的な判断をしないものであることを学び続けています。

 

これは、わたし達が判断を下さないことを意味する訳ではありません。

 

それは、わたし達の判断はより大いなる善に基づいていることを意味します。


 


わたしは、もはや皆さんに充分に役立たないニューエイジの教えでさえ置き去りにしていることについての議論に、ひとつの断片を加えたいと思います。

 

既にわたし達は、断定的判断と対比した判断に頼る状態について、そして(たとえ破壊的なひとりの個人を皆さんの人生に迎え入れるのではなく皆さんが皆さん自身を守らなければならない時でさえ)皆さんはあらゆる人を許すべきだという発想について、話をしておきました。

 

ここで、わたしは与えるという概念に対処したいと思います。

 

それは、既にわたし達が、誰が光を必要とするのか?という本の中でさらに充分に取り上げておいたものです。


 


与えることは、3次元の中のひとつの複雑な概念です。

 

既に皆さんが慣れている背景の感覚のせいで、皆さんが必要とするものに関して今後皆さんが決して充分に経験することはないという持続するひとつの些細な感覚があり、そして残っている数々の資源に対する競争があります。

 

これは、この目的そのもののために開発された数々の戦術に基づいた秘密結社(闇)のひとつの発想であり、貨幣の創造と、すべての人々のために意図された惑星の資源を貯蔵し独占しようとする少数の者達の能力に起因するものです。

 

私的な所有権がより一層多くの物事の強奪を開始しましたが、その一方で、より少ない力(お金)しか持たない人々はより一層少ない報酬で利用されました。

 

これは単純に、勝者がすべてを奪うというひとつの事例に過ぎず、そしてその勝者は、自分自身の貪欲と、他の人々の必要性に対する無関心に積極的に導かれた人々でした。

 

そのため皆さんはその状況で、大いなる豊かさの只中で、欠乏を感じていました。


 


この闇の計画の中に、寛容または親切の余地はありませんでした。

 

それは単純に、利己性を正当化し釈明するひとつの人生観に過ぎません。

 

わたしはここで、純粋に懸命に努力して、世界に役立つ何かをもたらす人々、そしてその人々が創り出すものに対する合理的な俸給またはボーナスが支払われる人々に言及している訳ではありません。

 

充分に、沢山、同等に持つことは、何も悪いことではありません。

 

まさに自分のもの対他人のものという考え方が、そういった苦痛に満ちた分離と、最終的にその競争の底辺に位置してしまう人々の必要性をもたらしてきました。


 


ここ最近の中で、80年代あたりから始まって、称賛に値する望ましいひとつの追及として、自分自身のためにお金を稼ぐ方向に向かうひとつの巨大な運動が起りました。

 

それで数多くの人々が、お金が与えることができる価値を確信したため、社会奉仕の分野の専門家を訓練する授業への参加が急減し、資金と同時に学会の中の関心も失われました。


20年後、他の人々に役立つようになるという自分達の夢を諦めた人々が自分達の後悔を示し始め、たとえそれがより低い賃金を意味するとしても、より充実した仕事の方を好んで商業界を離れました。

 

現在、その振り子がもう一度揺れ続けていて、今後はすべての種類の訓練計画が社会計画立案者達、芸術家達、作家達、踊り手達、音楽家達、役者達、技術者達、そして建築家達を排出し続けて、未来の数々の科学技術と建造物を築き上げることになるでしょう。


 


ここで、3次元の世界の中で与えることがお金に対する強迫観念によって影響を受けた姿について伝えることにしましょう。

 

言うまでもなく、莫大な量のお金を持った人々は、ただ銀行家達、巨額の投資家達、企業の重役達、そして13の家系の構成員達だけでした。

 

彼らは慈善的な理念に自分達の純粋な富の1%を与えることによって自分達を有名にすることができました。

 

一年に4万ドルを稼ぐひとりの労働者にとって、それは400ドルに等しいものです。

 

どれほど数多くのより低い所得階層の人々が、貸し出し、譲り、ひとりの友人のために食料を買うか、あるいは教会の食器の中に10ドルの献金を置くことに関して何も考えず、その人生の中で毎週それを行っていることでしょうか?

 

もしも与えるというひとつの見世物を創り出す百万長者達よりもその人々が壮麗に称賛されないとすれば、それはその悪評のために提供するのでしょうか?


 


他の人々へのその個人的な親切や寛大さに対して認識され愛されることを望むひとりの個人が他の人々に与えることを自分の人生の仕事にする一方で、自分がどれほどあらゆる人に与えることが好きで、自分達がどれほど大きなこころを持っているかを認識させるために私的な宣伝活動を創り出している時、家族の間または友人達の間で、さらに重要なひとつの力さえ生じます。

 

この種の人格は、彼らが贈り物をしているその個人が彼らに望むものがどのようなものかに関係なく、執拗に与えます。

 

彼または彼女は、彼らがどれほど沢山与えるか、それがどれほど高く付くか、そして受け手達が感謝しているかどうかにかかわらず、そしてその贈り物が多少なりとも返礼されたかどうかにかかわらず、その受け手がどのように反応するかについて、判で押したように話をします。


 


親愛なる皆さん、これは与えることではありません。

 

それは強要です。

 

その与え手は、この与えて受け取るという構図の中ではひとりの互恵的な相手を持ち、それがその受け手であり、その受け手は人々に、受け手達の周りのあらゆる人々の心の琴線の上で受け手達が演じるその窮状に関する罪悪感を覚えさせ、与え手達の同情と親切心を引き出すことに関する熟練者です。

 

何という力でしょうか!

 

押して、引いて、不満を漏らし、与え、取り、哀れな鳴き声を発します。

 

これは、あらゆる人にとって、悲劇のためのひとつの調理法であり、これには自己陶酔した自我達の破壊的なワルツを目の当たりにすることを強要された人々も含まれます。


 


これがわたし達を議論の要点に連れ出しますが、そう思いませんか?

 

一度皆さんが皆さんの恩恵を手にするなら、今後皆さんはどのような種類の博愛主義者または寛大な友になるのでしょうか? 

 

まず、与えることは実際に何なのか、そしてそれは本物である(そして強奪ではない)ことを皆さんはどのように認識するかについて、規定することにしましょう。


 


純粋に与える行為は、他の人々に役立つ状態と同じです。

 

それは、こころから真っ直ぐに現れるひとつの身振りです。

 

契約はなく、借用書もなく、関連する自我もありません。

 

それは単純に、支援しようとするひとつの衝動であり、その後にひとつの有意義な支援の提示が続きます。

 

望ましくは、その支援が匿名であるか、少なくとも何らかの感謝または称賛への期待がないことです。

 

そうでなければ、黄金の中で飾られた自分自身の名前と一緒に、一台のリムジンの後部座席から贈与を支給する億万長者達のように、皆さんは人気または名声を買い取っています。


 


他の人々に役立つことは、お金よりも多くの物事を必要とします。

 

今後他の人々のために効果を発揮する何かを創り出すことは、他の人々が必要としているものであり、皆さんが他の人々に与えることを望むものではないという理由から、皆さん自身の才能と能力を利用することが必要になります。

 

ユダヤのひとつの地域社会にとって豚を満載した積荷は、誰も養うことはないでしょう。

 

メッカへ向かう聖書のひとつの枠組みは、ただ過去150年の間に世界中の伝道者達が先住民の人々にもたらしてきた侮辱を繰り返すだけになるでしょう。

 

わたしがこれ以上話す必要があるでしょうか?


 


一度皆さんが豊かになってしまえば、皆さんが役立つ方向に進むそのやり方が、事実通り問題になります。

 

皆さんが今与えられようとしているその富は、実際に重要なひとつの目的に役立つことになるでしょう。

 

まずは皆さん自身の共同社会の中で、そして次に世界中で本当の変化を創り出すために参加して手を取り合う光の活動家達のひとりになるために、その創造性を、皆さんのエネルギーを、そして皆さんの閃きを皆さんが利用できるようにするために、今後それが、一週間に40時間かそれを上回る仕事の苦役から皆さんを自由にすることになるでしょう。


 


皆さんは、ある意味ですべて熟練者達です。

 

最初は、世界をひとつのより良い場所にするために皆さんが皆さん自身の天稟と才能を利用できるその方法に、目を向けてください。

 

このようにして、皆さんはその途中でこころを鳴らすことになるでしょう。

 

これは、世界の中の本当の変化に向かう道筋です。

 

わたし達は一緒に、絶望と、特にその欠乏が避けられない生き方になっているという信念を、克服する必要があります。

 

お金と現代的な経済体制についての信念と結び付けられた闇の者達の発想は、既にその者達の目覚めの中でひとつの悲惨な軌跡を残しています。

 

既に皆さんがそのように計画していたかどうかにかかわらず、今後皆さんが対処することをわたし達が認識している数々の苦難があります。

 

親愛なる皆さん、皆さんの優しく寛大な霊性が、今後世界を変える慰めになるでしょう。


 


皆さんは、何処に行こうとも、確信の光、神そしてお互いへの信頼を支えることになるでしょう。

 

皆さんの閃きと、人間または他の生きているすべての存在達への深い愛は、まっさらなやり方で惑星を照らし出すことになるでしょう。

 

母なるテラそれ自体は、環境の劣化を止める皆さんの努力の大いなる後援者になるでしょう。

 

テラは、既に微笑んでいます。


 


わたし達は、歓びに溢れる祝祭の中で、皆さんと一緒にいます。

 

そのため今後皆さんは、ようやく皆さん自身を共有し、新しい友情を作り、そして踊るための時間と資金を持つことができるようになるでしょう。

 

皆さんが皆さんのこころの中の愛と伴に出発する時、わたし達は、皆さんのために、皆さんの曲を演奏しているでしょう。


 


わたしは皆さんのレディ・ポーシャ、天の集団と一緒に、皆さんに愛、歓び、そして終りのない豊かさを送ります。

 

そのため皆さんは、怖れまたは躊躇いを持たずに、皆さんの愛に溢れるこころの最も深い部分から与えることができます。




Transcribed by Kathryn E. May, September 5, 2014, 11 pm, New York

www.whoneedslight.org


http://lightworkers.org/channeling/204282/lady-portia-heart-giving

翻訳★森のくまさま...ありがとうございます。
転載される場合には、出典を明記してください。

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