神聖なる自己:皆さんの“外側”には何もない(“天使の擁護者”を演じる方法を学ぶ) [神聖なる自己]
Divine Self
Nothing is "Outside" You (Learning to Play "Angel's Advocate")
Channeler: Simon NightStarr
これは、単純な科学です。
それは、こうした数々の教えの中の、“客観的なものは何もない”によって意図されたものです。
この自覚を持つ人々に対する皆さんの定義を混同しないでください。
これは、皆さんが慣れ親しんでいるほとんどの価値観の言語とは非常に異なる言語です。
神聖なる自己は、複雑な泥沼の中に住んではいない存在です。
神聖なる自己は、皆さんのさらに高い精神に明確なものを伝えます。
何故なら、皆さんのさらに高い精神は、神聖なる自己と同調しているからです。
神聖なる自己は、人間のひとつの個性ではありません。
従って、わたしはこうした言葉が真実だと主張していると思い込まないでください。
神聖なる自己は頻繁に、言葉はそれ自体で真実ではない、と口にします。
言葉は信念であり、信念のひとつの表明です。
これもまた明白です。
何らかの形而上の教えの中で何かが“真実”として述べられる時、その教師が、その言葉それ自体、その信念は真実だと主張していると、思い込まないでください。
それは、ほとんどの読者が犯す、非常に共通した間違いです!
普通は、その伝達者はそのように主張していると、皆さんは無意識に思い込みます。
それは、この伝達者が主張するものではなく、そしてまたそれは、この神聖なる自己の自覚的意識が主張しているものでもありません。
こうしたメッセージの中で何かが“事実”として伝えられる時、この神聖なる自己は、今まで繰り返し、こうしたものでさえ、すべての言葉と信念はそれ自体で意見であると伝えてきました。
そしてそれ故に、わたしはただ単に、言葉または信念それ自体ではなく、事実に基づくものとして、記述された言葉の“背後”または“内部”の霊的な本質について話をしているだけです。
一部の人々が“更新された”ものとして分類するものでさえ、すべての言葉は信念であることを、忘れないでください。以上。
実際にわたしの理解の中では、すべての言葉、すべての“物事”は、多様な水準の“歪み”で交信されています。
ほとんどの人間の大人達は、かなり言葉に捕らわれるため、彼らは彼らが同意しないものについてさえ、明確ではありません。
更に深く進む代わりに、ひとりの賢明なこの資料の読者が最近行ったように、真の内面のメッセージの本質に触れること、何らかの資料(この資料だけではなく)の莫大な数の読者達は、同意しない何かを探し求めながら、ひとつの慎重な態度で読み始めています。
これは、ほとんどの“さらに高い意識” の集団の中でさえ、極端に共通するものであり、その理由は単純に、一般的にさらに高い自己は、依然としてそれほど信頼されている訳ではなく、人々がその注意を表面に記述されている言葉でひとつの頁または画像に注意を集中する時に、ほとんどの人々が簡単に忘れるからです。
“天使の擁護者”を演じる方法を学ぶ
Learn to Play "Angel's Advocate"
皆さんがひとつの画像の上で読むものでさえ、皆さんが引き寄せ、皆さんが明らかにしたものであることを、忘れないでください。
皆さんが、それを皆さんの人生にもたらしました。
皆さんがそのメッセージをクリックして、それを読むことを選択しました。
そしてわたしの子供達、皆さんひとりひとりがこれを認識しています。
そしてそれにもかかわらず、数多くの皆さんが、明確なものを見逃し続けています。
この神聖なる自己は、任意のメッセージがこの通訳によって書き写されるかなり前から、一般的に読者が示す反応がどのようなものかということについて、非常に自覚しています。
この自覚的意識にとって、驚きはありません!
実際に皆さんの“外側”には、何も存在しませんし、実際に皆さんの“内部”にも何も存在しません。
しかし少なくとも、こうしたメッセージや他の通訳達を通した類似のメッセージの中で与えられるような“内面に目を向けること”という霊的な概念は、“悪魔の提唱者”を演じる者達よりも、遥かに力を与えるものです。
“悪魔の擁護者”を演じる者達は、主として“知的な”詳細と、“世の中で”起っている物事に夢中になっています(それは通常、しかしいつもという訳ではありませんが、横柄に“自我の擁護者”を演じています。
何故なら、その“熊手”と“二枚舌”で干渉し刺激することが大好きなのが、自我になるからです)。
実際に、この資料も含めて皆さんが確認し、読み、耳にするあらゆる物事に疑問を持つように繰り返し皆さんに働き掛けるのは、(数多くの交信者を通した)この神聖なる自覚的意識です。
このメッセージは、わたしの通訳がわずかな歪と伴に共有するあらゆるメッセージの中で、それがあからさまに語られていない時でさえ、いつも与えられ、暗示されています。
言葉よりもさらに深いところに目を向けてください。
“悪魔の擁護者”を演じるほとんどの人々がその概念そのものに対する非常に否定的な基調に気付いてさえいないことは、興味深いことです。
“悪魔”は、明確に自我のひとつの暗喩であり、それは一部の教えが、“低次の自我”として言及するものです。
言うまでもなく、自我は悪いものではありません。
自我は単純に、愛で、さらに高い自己の直接的な導きと監視の下で、その適切な場所に設定されることが許されるものです。
ほとんどの皆さんが、“天使の擁護者”を演じることについて、今まで決して耳にしてこなかったのではないでしょうか?
言うまでもなくそうでなかった理由は、皆さんはまず、皆さんがその自我の歪みを確認して、ひとりの天使の擁護者を演じることが事実通り意味するものを学ぶことができる前に、“悪魔の擁護者”という概念に疑問を持ち始めることが必要になるからです。
“悪魔の擁護者”を演じるほとんどの人々は、その人々が行っている物事とのものに疑問を持つことさえせず、それにもかかわらず、彼らは彼らが確認し、読み、あるいは聞くものに“疑問を持ち”、あるいは“異議を唱える”ことを主張することに、気付いてください。
普通これは、偽りの質問です。
何故ならこのゲームを演じるほとんどの皆さんが、実際にいわゆる“すぐさま”同意できない何かを探し求めるひとつの態度で、競技場に入るからです。
これは、天使の擁護者が演じるための“競技場”といった種類のものではありません。
天使の擁護者は、彼または彼女の神聖なる内面の存在、さらに高い自己を“擁護”する者であり、何らかの“悪魔”または“自我”を擁護する者ではありません。
しかし、それは単なるひとつの言い方です。
言うまでもなく、それは、数多くの人々がこれに抗議して言おうとするように、“悪魔または自我”に役立つことを目的にしていません。
実際に、それはひとつの信念であり、そしてそれにおいて、まさに最初のものではありません。
何故なら、“悪魔の擁護者”を演じることは、既に大衆向けのひとつの文化的な物事になっていて、それを演じる人々は、自分達が実際に行っていることを認識さえしていないからです。
そして極めて頻繁に、それはかなりの抑圧された怖れで行われていて、それでも数多くの人々は、自分達は“自信”を持ってそれを行う、と主張しようと考えます。
しかしその一方で、事実通り自信がある個人は、生産的になることに意識を集中し、その状態は、幸せと同調している状態に焦点を合わせています。
幸せは、“悪魔の擁護者”を演じる者の課題として、彼らが“わたしはまさにこれについてより多くの透明性を望む”といったような物事を主張する間でさえ、頻繁にその者達にとって最も遠く離れた物事であり、しかしその一方で、賢明な天使の擁護者は、他の人々に疑問を持つことに多くの時間を費やす代わりに、彼または彼女は、その時間のほとんどを、自分自身に疑問を持つことに費やします!
何故なら、これはひとりの目覚めた“人間の天使”が行うものであり、彼または彼女は、自分自身の本質を深く調べるからです。
その理由は、これが自己実現を促すものになるからです。
少なくとも、もしも皆さんがいわゆる“悪魔の擁護者”を演じるなら、その時は、ご存じのように他の人々を標的にする代わりに、身を整えて、皆さん自身の“無意識の”信念または処理に対する“悪魔の擁護者”になってください。
大衆文化の策略を手放す
Let Go of Pop Culture Gimmicks
“天使の擁護者を演じる”という発想は、新鮮です。
それは“悪魔の擁護者”が行うように、悪臭を放つことはありません。
“悪魔の擁護者”は皆さんの本当のありのままの姿に対する独創性を持たず、そしてまさに既に沢山の人気を博している別の大衆文化の策略です。
しかしその一方で、すべての物事と同じように、それは確かに、皆さんの社会の中でその正当な場所を持ちます。
何故なら、先に挿入句の中でわたしが述べたように、それは“いつも”横柄に行われる訳ではないからです。
時に、希な事例において、“悪魔の擁護者”は、否定的に方向付けられた可能性がある何らかの先入観を持った偏りを棚上げにして、開かれた精神とこころで、実際に何かまたは誰かに本当に疑問を持っています。
皆さんはすべて、偏りを持ちます!
これは理解しなければならない、とても重要な事です。
何故なら、数多くの皆さんが、“他の誰か”が偏っている姿を指摘することが“大好き”だからです。
ここのわたしの通訳でさえ、偏っています!
偏りは、皆さんの合意された人間の在り方に対して、いわゆる自然な事です。
何故なら偏りは、信念、意見に過ぎないからであり、他の何ものでもないからです。
そしてその通り、皆さんの新生児でさえ偏りを持ちます。
それは、いわゆる振動の多様な水準の中でまさに創造のあらゆる物事が考えを持つように、新生児達もまた考えを持つからです。
皆さんの赤ん坊達は、精神を持たない自動装置ではありません。
何事も誰もそうではないように。
真実の探究者達、これを明確にさせてください。
物質的な現実性に入る際に皆さんはひとつの信念を持っていなかったことは、後知恵の中で皆さんにはそう見えるかもしれませんが、あらゆる皆さんが、無意識の条件付けを持って生まれました、以上。
実際にそれはひとつの非常に滑稽な仮定であり、何故ならすべてのエネルギーの形が思考を持ち、そしてそれ自体で思考として存在するからです。
すべてのエネルギーの形、すべての存在は、思考の姿です。
繰り返しますが、皆さんのさらに高い自己によって理解されているように、これは単純な科学です。
霊の科学!探究者は、それを簡潔なものにするように!
Spirit Science! Keep It Simple, Seeker!
霊の科学は、わたしが教えているものであり、そしてここでは複雑さや混乱は絶対的に必要ありません。
これは、わたしの“キスの原則”の変型です。
“探究者は、それを簡潔にするように!”
皆さんの信念は、皆さんの処理の条件付けであり、皆さんが創造の中の何らかの“物事”を明確に見る時、それぞれの“物事”は明らかな形の中のひとつの計画であることが確認されます。
ひとつの魂としての皆さんは、皆さんの物質的な身体を“生み出そう”とする2つの魂との魂の合意の中で、彼らは皆さんの地上の両親になるだろうということに同意しました。
そしてこの同意はひとつの信念であり、ひとつの計画です。
わたしの子供達、数々の計画は、数々の同意です。
皆さんのコンピューターのプログラミングでさえ、例外ではありません。
これは理解することが簡単なものです。
そのため、どうかそれを理解してください。
これが、霊の科学が機能する姿です。
それは本質的に、簡素で単純です。
そして多元宇宙と皆さんの人間の科学は、皆さんの人間の視点からは“複雑”に見えるかもしれませんが、これは、すべての創造の内部の単純な完璧性を理解する皆さんのさらに高い自己にとっては、無意味なものです。
この自覚的意識がこの翻訳者を通して頻繁に愛について話すのは、これがその理由です。
何故ならそれは、彼が最も重要なものとして認めるからです。
ほとんどの人類が一般的に把握する“愛”ではなく、それは数多くの種類に属するもののように見え、それは意味を為さず、しかしひとつの愛であり、無限の愛であり、普遍的で無条件の愛であり、それは霊の科学の核心そのものです。
皆さんの“外側”には何もない
Nothing Is "Outside" You
従って言うまでもなく、同じ証拠そのものによって(ちょうど反対側で)、同じように皆さんの“内側”にも何も存在しません。
しかし繰り返しますが、この“内側”、“内面”または“内部”という概念は、一般的に皆さんが皆さんの焦点を真の存在するもの、永遠の今に移行させるために役立ちます。
何故なら、皆さんのほとんどの配慮は“外部に焦点が合わされている”ことが、読者の皆さんにかなり充分に認識されているからです。
これは、ほとんどの人間が把握するやり方です。
これが素晴らしい理由は、これが皆さんすべてが同意したもの(ひとつの魂として、物質的な在り方に向けて、皆さんが信じ、計画したもの)になるからです。
皆さんが創り出し、今も絶えず創造を続けている“マトリクス”(それはそれ自体でひとつの意識の乗り物、ひとつの遊び場、意識自体を表現するための意識のひとつの手段)から“目覚める”というこのゲームを演じることは刺激的なことを、皆さんは気付きました。
明らかに、ひとつの“対象”は、思い出すことを通して、皆さんがそれは実際に皆さんの外部にはないという事実に目覚めない限り、皆さんの“外部”に存在するものとして把握される何かです。
そしてそれを思い出すのは、皆さんが 皆さんの更に高い自己が“客観性”を定義するという意味で、“客観的なものは何もない”ことを自覚する時です。
“客観性”は、定義によって、分離を暗示します。
客観的なものは何もない、ということは、“何も分離していない”ことを意味します。
この神聖なる自己は、皆さんは皆さんの世界の皆さんの人間の知覚の中で客観性の経験をひとつも持たない、とは決して口にしません。
その違いを確認してください。
皆さんの人間の経験の否定は何もありません。
皆さんの人間の経験は、それが“いまそうなっている”ものであり、それは、皆さんの物質的な感覚器官の利用を通した皆さんの知覚のひとつの解釈です。
そしてすべての解釈は、皆さんの更に高い自己がそれを理解するような定義によって、幻影的なものです。
これは非常に単純です。
これは、物質的な現実性として皆さんが把握するものに関する皆さんの人間の経験に関して、皆さんの更に高い自己またはこの神聖なる自己(皆さんのさらに高い自己がこの一部になっている)からの何らかの軽視が存在することを、意味しません。
言うまでもなく、皆さんの人間の知覚が外部に焦点を合わせる時、その知覚に応じてひとつの“客観的な世界”が存在します!
これは完全にわたしにとって容認できるものですが、その一方でわたしは同時に、その明確な透明性も確認します。
皆さんの愛についての怖れと誤解を癒す。皆さんの“無限の感覚”と同調する
Heal Your Fears and Misconceptions About Love. Align With Your "Infinite Sense."
(皆さんがどのような言語を用いていようとも関係無く、愛という概念に関して)この“愛”という言葉を余り好まない数多くの皆さんが存在することを(その皆さんの数は増えてさえいます)、わたしは気付いています。
そしてこれが、疑問を感じる皆さんの部分です。
それは、ひとつの疑問が、皆さんが接しているひとつの探求を象徴するからです(わたしが接する探究=疑問)。
これは皆さんの癒しの部分であり、それにもかかわらず、それと同時に、“何が事実通り重要なのか”という愛という言葉と概念に対するつまらぬ粗探しは、言うまでもなく皆さんが寛いで、天使の擁護者が行うように、皆さんの疑問を内面に転じない限り、かなり長い間、今後皆さんに無駄な努力をさせることを、自覚してください!
皆さんは、確かに“愛”という言葉に対して皆さんの好みの何らかの言葉を代用することができますが、しかし神聖なる真実(それは、“主観的”でも“客観的”でもなく、何故なら、神は両方を超えているため)は、本質的に、神は愛として存在する、という事実です。
もしも皆さんが“神”という言葉をそれほど好まないなら、その時はおそらく“根源”にしてください。
この自覚的意識は単純に、この翻訳者が使用に対する何らかの良心の呵責を持たないものを使用します。
皆さんは実際に、皆さんに歓びと自由を感じさせる明確な愛という感覚に関する正当化の代わりに、ここで皆さんの愛についての数々の発想に疑問を持つように促されています。
わたしの天の宇宙の中には、隠れ蓑はありません。
たとえ皆さんが時にどれほど愛を忘れている可能性があるとしても、皆さんはすべて、愛という感覚を、皆さんの内部で非常に良く認識しています。
そして皆さんは完全に、この認識の感覚を無限に向けて広げることができます。
無限とは、無条件の愛のためにわたしがここで使っている別の言葉です。
これは、わたしの最近のメッセージのひとつの最後でわたしが話した“無限の感覚”について言及しています。
この無条件の愛の“認識の感覚”が、無限の感覚です!
同じように、数多くの人々が、“帰順”という言葉を怖れます。
それを乗り越えてください。
この教えの中で、そして類似の教えの中で、それは単純に、怖れを手放すことを意味します。
もしも皆さんがその言葉を好まないなら、だからどうしたというのでしょうか。
それはその教えを偽りにすることはなく、また幸せに対する抵抗を解き放つことの大いなる重要性を皆さんの精神に印象付けるために役立つ際に、効果を失わせることもありません。
“悪魔の擁護者”は、依然として頻繁に、“細事にこだわり大事を逸する”傾向がありますが、それはこれが、何らかの資料を見直す時に、“悪魔”が、“自我”が、頻繁に行うことになるからです。
諧謔を込めて言えば、“幾つかの部分、あるいはその部分はわたしに共鳴するが、わたしはこの部分は好きではない、しかしわたしはこの忌々しいす物全部を、窓の外に放り投げるだけだ!”
その一方で、天使の擁護者は英雄的で、勇敢で、そういった未熟な膝蓋腱反射的な反応のために時間をほとんど割くことはなく、ありとあらゆる個人、物事、またはメッセージの中に、最も高く最善のものを探すことを選択します(言うまでもなく、もしも人がそれをそのように受け取ることを選択するなら、人は当然ながら、この翻訳者は“悪魔の擁護者”を演じている、と言うかもしれません。)。
わたしの子供達、自我の信念に関するわたしの指摘は、皆さんの知性を軽視していないことを、理解してください。
それは、わたしが頻繁に、皆さんはわたしが指摘する“否定的な”物事そのものではない、と皆さんに気付かせる理由です。
皆さんは皆さんの信念ではありません。
皆さんの人間の自己は存在すると皆さんは口にするかもしれませんが、しかし本質の中で皆さんとして存在するものは、ひとつの信念ではありません。
皆さんは本質的に神聖なる愛であり、それは神性それ自体であり、そしてこの愛は確実に、皆さんが“愛”と呼ぶかもしれない何らかの情緒的な感覚ではありません。
愛は実際に、皆さんの人間の知覚の観点からいわゆるその情緒的な色調を持ちますが、しかしそれは、皆さんの更に高い自己に応じたものではありません。
皆さんの更に高い自己は、いわゆるその真の状態の中での真の愛は、すべての条件を超えていることを認識しています。
そしてひとつの情緒は明らかにひとつの条件であり、それ故に、この教えや類似の数々の教えが、すべての条件を超えるものを暗示するため、“無条件の愛”について話すのは、これがその理由であり、それは実際に神それ自体であり、絶対的なものです!
皆さんの内なる神を拝して
Namaste
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