神の自己:わたし達の神の自己との会話:ひとりの導師の機能 [神の自己]
God-Self
CONVERSATION WITH OUR GOD-SELF: THE FUNCTION OF A GURU
ウテ経由
Channeler: Ute
かけがえのない仲間達!
Dearest friends!
ひとりの今日その機能について、特にニューエイジの団体の中で、誤解が蔓延しています。
このわたし達の神の自己との会話は、これに対するさらに大きな明確さをもたらすことを目的にしています。
しかし実際の会話の前に、おそらくまず、わたしがそれを “わたし達の神の自己” と呼び、“わたしの” 神の自己ではない理由を明確にすることが必要になります。
一部の皆さんは、それについて疑問を感じるかもしれません。
そしてわたしは、以前これについて決して説明したことはありません。
それは、単純にひとつの定義の問題です。
わたしのメッセージの中の神の自己は、すべての物事、存在達、出来事のひとつの自己であり、すべての創造のひとつの根源にして神聖なる意識であり、それはまた逆説的に個人的な姿と意識として現れています。
そのため、もしも皆さんが、それは “わたしの自己” に違いない、と考えるなら、その結果皆さんは、皆さん自身の “さらに高い自己” の視点から現れています。
それは、さらに高い皆さんの転生の正体です。
そのような訳で、たとえそれが微妙な姿で現れているとしても、それは依然としてひとりの個人的な存在です。
根源が “実質” である一方で、錬金術師達の “最初の問題”、“母” であり、さらに高い精神またはさらに高い自己さえも、そこから発生しています。
“わたし達の” 神の自己は、わたし達すべての一体性であり、それは必然的にあらゆるこころに話し掛けることができますが、それはそれがあらゆる存在の核心に宿っているからです。
わたしは、この説明が皆さんのより良い理解に役立つことを希望します。
以下の会話の中で、わたしはわたし達の神の自己に、霊的な指導者達の重要性と機能について尋ねました。
わたし達が認識しているように、ニューエイジ運動の霊的な指導者達の中にはもはや “中” にいません。
何故なら、彼らは彼ら自身の指導者達であり、彼ら自身の “外部” に教える誰も必要ではないことを、誰もが既に認識しているように見えるからです。
これは言うまでもなく、個人が実際に彼ら自身の内面の指導者達、つまり根源そのものと一致している場合、その通りのことです。
しかし、精神と感覚、精神的な実質について、しばしば意識の中、そして単なる感覚または注意を感じている領域である純粋な意識それ自体の中で発生する、ひとつの混乱が見られます。
この混乱は、ただ単に個人の自己を考えることは既にそれと一致している、と考える発想に通じる可能性があります。
しかしこの事例の中で起ることは、その個人は既にひとつの自己の発想を創り出していて、しかしそれは自己それ自体ではない状況です。
数多くのニューエイジ哲学の一員達は、この間違いを犯し続けています。
それには、ひとつの自己超克の実践(“自己/self”は小文字の“s”で表記されている)、深い洞察力、自己理解、そしてある程度の実際の “自己探求” が必要になります。
事実通りその自己と接触を持つようになることであり、それはさらに高い自己の母です。
それは、ただその精神が穏やかになる時だけ、出現します。
それはわたし達がわたし達自身と世界、高いまたは低いということについてのすべての概念を解き放つ時、そしてわたし達が探索を止める時です。
ここで、わたし達の神の自己との会話が始まります。
質問:数多くの人々が、ひとりの導師は必要ではなく、しかも彼または彼女は、自分自身を弟子に強要し、弟子を依存的で弱くする、と考えます。
従って、ただ弱い人々だけがひとりの導師を探そうとする、と考えます。
その一方で、伝統的には、神は導師である、と言われています。
これは何を意味するのか、そしてこれはどのように機能し、ひとりの個人はどのように限界を持たない状態、根源、全存在になることができるのでしょうか?
答え:何よりもまず、ひとりの真の導師は、ひとつの近道であることを、どうか理解してください。
ひとりの導師との関係性は、個人の霊的な過程と自己実現の時間を著しく短縮することができます。
真の導師の ‘観点’ と自覚から、彼自身(または彼女自身)は、ひとりの “他者” ではありません。
これはただ、初心者の把握です。
なぜなら、真の導師ただひとりが存在するからです。
ひとつの自己、またはひとつの神聖なる意識の光です。
導師はひとつの原理であり、ひとつの機能であり、ひとつの身体と精神ではありません。
それでも、外面的な観察者にはそのように見えるかもしれません。
導師は鏡であり、まだ自分自身の内部の神聖なる真実に気付いていない探求者に対して直接現れ、そして外見的に外部にある、神聖なる力です。
しかし実際には、“内部と外部” は、その弟子の幻影です。
導師と弟子の間の関係性は、完全に神秘的なものであり、精神では理解することができません。
それは、人間の恋人たちの間の愛よりもさらに巨大な愛に基づいています。
そしてそれは、意識が主要なものであり、身体と精神は二次的なものである、という真実に基づいています。
身体と精神の両方であり、導師の身体と精神と弟子の身体と精神は、意識の中で発生します。
従って、両方が意識を共有している状態であり、それでも弟子はまだそれを意識せず、それに対してその導師の意識的な自覚によって、身体と精神は、完全にその意識の光またはエネルギーに帰順し、そのようにそれを弟子に対して直接伝達し続けています。
そのため、ひとつの聖なる霊的な伝達が、探求者をその自分の内面の真実に目覚めさせることができるこの関係性の中で発生し続けます。
しかしその一方で、この真実は、身体と精神の中で気付かれないものです。
その身体と精神は、たださらに高い現実性のひとつの開口部を提供する数々のポータルを保有するだけです。
この真の現実性の意識と光またはエネルギーの中で、神の男性と女性の側面はひとつです。
古代の先住民族の霊的な伝統において、それはシヴァ・シャクティの結合と呼ばれます。
質問:彼らが物質的に離れる時、あるいは、導師が身体を離れ、根源それ自体に戻る時でさえ、導師の自覚がその弟子に影響を与え続ける傾向があるということは、どのようにして可能なのでしょうか?
答え:それは優しさと祝福に基づいた、その導師の意思によって起ります。
その導師は弟子の中の自己の自覚的意識を拡大し、従って弟子はその導師の中で行った彼自身の観想の中で受け入れます。
もしもその認識が真実なら、それは非常に力に溢れたものになります。
何故なら、それは導師の弟子に対する霊の力を誘発し、それが弟子の身体と精神の中で深遠で明白な数々の変化を始動させ、その一方でまたそれはDNAと分子の構造を変えるからです。
導師の身体と精神は、弟子の深く無私無欲の導師についての観想の中で消え失せ、そしてただひとつの自己だけが残ります。
弟子が究極的に弟子自身の中で、そして弟子自身として発見するのは、その弟子が導師の中で最初に受け入れるものです。
その弟子が、弟子自身の自己であるその導師の恩恵によって、最終的に認識によって、ふたつではなくただひとつの自己、ひとつの燦爛たる意識だけが存在することを直接理解するようになる時、その弟子はそれを自分自身のものとして認識します。
この承認は、個人自身の身体と精神の理解とそれを超克する永遠の能力が必要になります。
その時、その導師は自分の目的の達成を完了します。
しかし導師と弟子の間の愛は、永遠に続きます。
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最愛なる仲間達、ここで会話は終わりです。
それはむしろ、深く感じられたひとつの畏敬の経験であり、巨大な静謐と永遠の愛です。
皆さんもまたそれを感じることができることが、わたしの望みです。
沢山の愛をすべての皆さんに、
ウテ
It is my wish that you can feel it too!Much love to you all,
Ute
http://radiantlyhappy.blogspot.com.au/2013/04/conversation-with-our-god-self-function.html
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