仏陀:非二元性 [仏陀]
Buddha
Non-duality
9 February 2013 - 3:46pm
セングスタン経由
Channeled by Sengstan
The Faith Mind Sutra
The Great Way intro
Hsin Hsin Ming
Channeled by Sengstan
Third Zen Ancestor
大いなる道とは、好みを持たない人にとっては難しくないものです。
愛と憎悪の両方が不在の時、あらゆる物事は透明で隠し事のない状態になります。
しかしその一方で、最も小さな区別でも行うと、天と地は無限に分離します。
もしも皆さんが真実を理解することを望むなら、何事にも是非に関する意見を持たないことです。
皆さんの嫌いなものに対して皆さんの好きなものを提示することは、精神の病です。
物事の深い意味が理解されない時、精神の本質的な穏やかさは無駄に掻き乱されます。
その道は、莫大な空間のように完璧であり、欠けているものも過剰なものも何もありません。
実際に、わたし達が物事の本質を確認しないことを受け入れる、あるいは拒否することは、わたし達の選択に起因します。
外部の物事の数々のもつれの中にも、内面の空虚な感覚の中にも生きないでください。
物事の一体性の中で穏やかになってください。
そうすれば、誤った数々の考えはそれ自体で消えて行くでしょう。
皆さんが無抵抗を達成するために活動を停止しようとする時、皆さんの努力そのものが皆さんを活動で満たします。
皆さんが一方の極端か別の極端に留まる限り、皆さんは決して一体性を認識することはないでしょう。
その唯一の道で生きない人々は、能動性と受動性、主張と否認の両方に失敗します。
物事の現実性を否定することは、自分達の現実性を見失うことです。
物事の虚無を主張することは、自分達の現実性を見失うことです。
皆さんがそれについてより多く話し、考えるほど、皆さんはさらに道に迷い、真実から離れて彷徨います。
話すことと考えることを止めてください。
そうすれば、皆さんが認識できなくなるものは何もなくなるでしょう。
根本に戻ることは、その意味に気付くことですが、しかし外見を追い求めることは、その大本を見失うことです。
内面の悟りの瞬間に、外見と虚無を越えて行くことになるでしょう。
わたし達が現実と呼ぶ虚無の世界の中で起るように見える数々の変化は、ただわたし達の無知によるものです。
真実を探し求めないでください。
ただ、数々の意見を大切にすることは止めてください。
二元的な状態の中に留まることなく、そういった数々の追求を注意深く回避してください。
もしもあれとこれ、是と非の痕跡がある場合であっても、精神の本質は混乱の中で失われることになるでしょう。
すべての二元性はひとつのものから現れるとはいえ、このひとつのものにさえ未練を持たないでください。
精神がそのように平穏に存在する時、世界中のあらゆる物事は皆さんの気分を害することはできません。
そして皆ひとつの物事がもはや気分を害することができない時、それは古い方法で存在することを止めます。
区別する考えが生じない時、古い精神は存在すること止めます。
精神が消滅する時、対象が消滅するため、思考の対象が消滅する時、考える主題が消滅します。
物事は、精神を原因とする対象です。
精神は、物事が原因になってそのようになります。
こうした2つの物事の相対性と、その基本的な現実性を理解してください。
虚無の統一性です。
この虚無の中で、その2つは区別ができないものであり、それぞれがそれ自体の内部に世界全体を含みます。
もしも皆さんが粗さと精緻さの間を区別しなければ、皆さんは偏見と意見に惑わされることはなくなるでしょう。
大いなる道に生きることは、簡単でも難しくもありませんが、しかし限定された視野の人々は、怖れて優柔不断です。
彼らはより慌てて急ぐほどより緩慢に進み、執着を制限することができません。
悟りという考えに未練を持つことは、道を踏み外すことです。
ただ物事がそれ自身の方法で存在するようにしてください。
それで現れることも、過ぎ行くこともなくなるでしょう。
物事の特質、皆さん自身の特質に従ってください。
それで皆さんは、自由に歩み、影響を受けなくなるでしょう。
思考が束縛されている時、真実は隠されます。
何故なら、あらゆる物事は曖昧で不明確であり、厄介な判断の実践は、苛立たしさともどかしさをもたらすからです。
数々の区別や分離から、皆さんはどのような恩恵を引き出すことができるのですか?
もしも皆さんがひとつの道の中を進もうとするなら、様々な感覚と発想という世界でも毛嫌いしないでください。
実際に、それを完全に受け入れることは、真の悟りと一致します。
賢明なる者は目標を追い求めることはしませんが、しかし愚かな者は自分自身を拘束します。
ひとつの正しい行いがあり、数多くではありません。
数々の区別は無知なる者の執着した要求から現れます。
区別する精神で精神を探求することは、すべての中で最も巨大な誤りです。
安静と動揺は、幻影から生じます。
悟りによって、好き嫌いがなくなります。
すべての二元性は、無知な推測から現れます。
それは空気の中の花の夢のようなものです。
それをつかもうとすることは、愚かなことです。
得失、是非、その種の考えは結局すぐにでも無効にすべきものです。
もしも決して目が眠っていないなら、すべての夢は必然的に止まります。
もしも精神が区別をしないなら、一万の物事は、その通りに単一の本質に属するものです。
このひとつの本質の謎を理解することは、すべてのもつれから解き放たれることです。
皆さんがすべての物事を等しく理解する時、皆さんは無時間の自己の本質に到達します。
この原因のない、関係性のない状態の中では、比較も類比も不可能です。
動かない運動、そして動いている静止を考えてください。
動きと安静の両方が消え去ります。
そのような二元性が存在することを止める時、一体性それ自体も存在することはできません。
この究極の最終状態に対して、一切の法則や説明は適用できません。
もしも決して目が眠っていないなら、すべての夢は必然的に止まります。
もしも精神が区別をしないなら、一万の物事は、その通りに単一の本質に属するものです。
このひとつの本質の謎を理解することは、すべてのもつれから解き放たれることです。
皆さんがすべての物事を等しく理解する時、皆さんは無時間の自己の本質に到達します。
この原因のない、関係性のない状態の中では、比較も類比も不可能です。
動かない運動、そして動いている静止を考えてください。
動きと安静の両方が消え去ります。
そのような二元性が存在することを止める時、一体性それ自体も存在することはできません。
この究極の最終状態に対して、一切の法則や説明は適用できません。
その道を踏まえた統合された精神にとって、すべての自己中心的な追求が停止します。
数々の疑いと優柔不断が消え失せ、真の確信を持つ人生が可能になります。
一撃のもとに、わたし達は拘束から解放されます。
何もわたし達にしがみつかず、わたし達も何かにしがみつくことはありません。
すべては虚無であり、透明であり、自己照明的であり、精神力の行使はありません。
ここでは、思考、感覚、知識、そして想像力は価値を持ちません。
この本質の世界の中で、自己や自己とは別の物事のどちらもありません。
この現実性との調和に直接参加するために、疑いが生じる時に単純に ‘無二’、と口にしてください。
この ‘無二’ の中では、何も離ればなれではなく、何も排除されません。
何時、何処であろうと問題ではなく、悟りはこの真実に入ることを意味します。
そしてこの真実は、時間または空間の中の拡大または縮小を超えています。
その中では、単一の思考が1万年になります。
虚無がここにあり虚無がそこにあり、しかし無限の宇宙はいつも皆さんの目の前にあります。
無限の大きさと無限の小ささ。
違いはありません。
何故なら、数々の区別は既に消え失せ、皆さんはどのような境界も確認しないからです。
そのためまた、存在と非存在のことです。
疑いと議論で時間を浪費しないでください。
それはこれとは無関係です。
ひとつの物事が、すべての物事です。
区別することなく、間を歩き回り、混ぜ合わせてください。
この認識の中で生きることは、非完全性の不安を持たない状態になることです。
この確信の中で生きることは、非二元性に向かう路です。
何故なら、非二元性は、信頼の精神と一体だからです
数々の言葉!
その道は言語を超えています。
何故ならその中には、昨日もなく、明日もなく、今日もないからです。
http://lightworkers.org/channeling/176735/buddha-non-duality
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