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ヨシュア:感情への対応 [イエス:ヨシュア]

ヨシュア
Jeshua

感情への対応
Dealing With Emotions 


30 June 2011 - 11:00am
パメラ・クリベ経由
Channeler: Pamela Kribbe 
Jeshua channeled by Pamela Kribbe


親愛なる仲間の皆さん、わたしはふたたび皆さんに囲まれ、このように皆さんと話をすることができて喜んでいます。


これはわたしにとってもまた多くの意味があることを伝えなければならないと思います。


わたし自身の現実性の次元領域よりも皆さんに近付くことができる、このやり方のこうした出会いを、わたしは大切にしたいと思います。


それにもかかわらず、わたしはいつもみなさんのこころの内部に生きています。


そして皆さんがわたしのエネルギーに対してこころを開き、敏感に反応してくれる皆さんの時を待っています。


わたしのエネルギー、この時期に再生しているキリストのエネルギーは、単にわたしのエネルギーというだけではなく、また単純にひとつの時代に地球上に生きていたひとりの人物のエネルギーでもありません。


それは集合的なエネルギー領域であり、皆さんが自覚しているよりもさらに深遠な方法で皆さんが参加している領域です。


かつて皆さんはすべて、誓いを立てました。


皆さんはすべて、このエネルギーを地球の現実性に運び込み、地球の中にそれを定着させるという皆さんの意思を設定しました。


数多くの生涯、数多くの世紀の間、皆さんはこの使命に取り組んできました。


皆さんはすべて、内面のキリストの種子を誕生させる過程の中に存在し、わたしは皆さんを支援しています。


わたしはひとりの先駆者でしたが、それにもかかわらずキリストの種子を蒔くことは集団的な努力でした。


実にわたしの地球への出現が可能になったのは、ただ皆さんによって織り上げられてこの場に存在していたエネルギー領域のためでした。


わたし達は一体となって働いていて、そしてわたし達はひとつの統一体です。


だからこそ、すべての皆さんがわたしを利用できます。


わたしはその種のひとりの人物だけに排他的に利用できる存在ではありません。


わたしはすべての皆さんに役立ちます。


今日、わたしは皆さんの日々の生活で皆さんに深くそして頻繁に接している問題について話したいと思っています。


それは感情に対処することを目的にしています。


わたしは前回、皆さんのエネルギー領域とチャクラを貫いて流れている男性と女性のエネルギーについて伝えました。


皆さん自身に対して健全で完全になることの一部として、わたしは下位3つのチャクラを癒すことの重要性を強調しました。


霊性を切に望んでいる皆さんの中には、皆さん自身で思考と感性両方の中に引き籠って、より高いチャクラに向う傾向を持った人々が存在しています。


そのため、わたしはこれを強調することが重要だと考えました。


心臓、第三の眼、そして王冠の各チャクラは皆さんにとって魅力的です。


何故なら、こうしたエネルギーの中心は、皆さんにとってこれほど自然なものになっているさらに高い領域に皆さんを結び付けるからです。


しかし、現在において、それよりも低次の水準、地球に近いより低い水準のチャクラでこそ、実際に精神的な飛躍的進歩が起る必要があります。


感情の領域は、皆さんの自由と健全性に向けた成長の過程において、死活的に重要な領域になっています。


皆さんは霊的な存在です。


皆さんは、地球の現実性の高密度と粗雑さを認識していない次元領域の現実性から現れています。


これに対処することは今まで困難なことでした。


数多くの人生を通して、皆さんはここ地球上で皆さんの宇宙的なエネルギーを表現しようと試みてきました。


そしてこの表現の中で、また地球に対する皆さんのエネルギーの経路の中で、数多くの深い心的外傷が築き上げられてきました。


皆さんすべてが所有している感情的な身体は、傷や心的外傷で溢れています。


わたしは今日、それについて伝えたいと思っています。


内面の成長という道筋を歩んでいる人は、誰でも感情の重要性を認識しています。


皆さんはそれを抑制すべきではなく、何らかの方法で折り合いを付ける必要があり、また最終的にそれを解き放つ必要があります。


しかし、それがすべて実際に機能するかどうかはいつもそれほど明確という訳ではありません。


わたしは最初に感情と感性との間の区別を付けたいと思います。


わたしはここでは特定の言葉や定義に関心がある訳ではありません。


そして皆さんはそれを異なる名前で呼んでもかまいませんが、しかしわたしは、本質的に誤解の表現であるエネルギーという意味の感情と、さらに高い理解のひとつの姿である感性つまりエネルギーとの区別を付けたいと思います。


感性は皆さんの教師であり、一方感情は皆さんの子供です。


感情、情動は、物質的な身体の中で明確な兆候を見せるエネルギーです。


感情は、皆さんが本当に理解していない物事に対する反応です。


皆さんが発作的激怒に圧倒されている場合に起っていること、それを良く考えてください。


例えば、不意に誰かが皆さんの感情を傷付け、皆さんは皆さん自身が憤っていることを感じます。


皆さんは皆さんの身体の中でこれをとても明確に感じることができます。


特定の器官で、皆さんはエネルギーが緊迫していることを感じます。


この肉体的な緊張、つまりその後をエネルギーの衝撃が襲う締め付け感は、皆さんが理解していない何かが存在していることを明らかにしています。


皆さんに向かって現われる、皆さんが不正だと感じるひとつのエネルギーがあります。


不当に扱われているという感覚、簡単に言うと理解できないという感覚は、感情を通して発散されます。


感情は理解できないという表現であり、ひとつのエネルギーの爆発であり、また解放です。


これが起る時、皆さんは以下のような選択に直面しています:わたしはこの感情に対して何をしようとしているのだろうか?


わたしはそれに対する自分の実際の態度を基準にしようとしているのだろうか?


わたしはこれを他の人々に対する反応のための燃料として用いようとしているのだろうか、あるいはその感情を何か他の物事におけるわたしの基準にしようとしているのだろうか?


この質問に答える前に、わたしは感性の特質について説明したいと思います。


感情は本質的に、皆さんが身体の中で明確に把握できる誤解の爆発です。


一方、感性は異なる特質に属していて、それも異なる方法で把握されます。


感性は感情よりも物静かなものです。


感性は魂のささやきであり、穏やかな合図、内的な知識性、あるいは後でとても賢明であったことが明らかになる突然の直感的な行動を通して、皆さんに届けられます。


感情はいつも感情に対して強烈で劇的なあるものを持ち合わせています


不安発作、怖れ、激怒、あるいは深い悲しみを良く考えてください。


感情は完全に皆さんを牛耳り、皆さんを皆さんの霊的な中心から引き離します。


その瞬間において皆さんは極めて感情的であり、皆さんの中心から、皆さんの内面の明晰さから皆さんを引き離すような種類のエネルギーで溢れています。


そういう意味では、感情は太陽の前に浮かんでいる雲のようなものです。


これによって、わたしは決して感情を不当に扱う何かを伝えようとしている訳ではありません。


感情は抑制されるべきではありません。


感情は、皆さん自身をより密接に理解するひとつの手段として、とても貴重なものです。


しかし、わたしは感情的なエネルギーの特質が何であるかを明言したいと思います。


それは誤解の爆発です。


感情は本質的に皆さんをその中心から連れ去ります。


一方、感性は、さらに深く皆さん自身に、皆さんの中心に皆さんを連れて行きます。


感性は、皆さんが直観と呼ぶものに密接に関連しています。


感性はより高い理解、感情と精神両方を超える一種の理解を表現します。


感性は、身体の外部、ひとつの非物質的な領域から発生しています。


それが、感性が明確に物質的な身体のひとつの場所の内部に位置付けられていない理由です。


皆さんがある空気や雰囲気といった何かを感知した時、あるいは皆さんがひとつの状況について虫の知らせを感じた時を良く考えてください。


その時皆さんの内面に一種の勘の良さがあり、それは外部から現われているように思えますが、それでもそれは外部の何かに対する皆さんからの反応ではありません。


それは“無から” 生じています(皆さんが “思いがけなく(青い色から)”と美しく呼んでいるように)。


そういった瞬間において、皆さんは皆さんの心臓のチャクラの中で何かが開いているように感じている可能性があります。


こうした内的な勘の良さが皆さんに現われる、数多くの瞬間が存在しています。


例えば、実際に一緒に話しをしていなくても、皆さんは誰かについての何かを“認識”している可能性があります。


皆さんは、後で皆さんの人間関係において重要な役割を演じることになる皆さん二人についての何かを感知することができます。


そういった物事は言葉で把握することは簡単ではありません。


“単純にひとつの感覚”であり、確かに精神の知的な機能で簡単に理解できるものではありません。


(それは、皆さんの精神が懐疑的になり、作り話をしているか頭がおかしくなっている、と皆さんに伝えている瞬間です。)


わたしは感情的な特質よりも“感性の”特質を多く備えているもうひとつのエネルギーについて言及したいと思います。

それは、歓びです。


歓びは感情的な特質を超えたひとつの現象になり得るものです。


時に、皆さんは内面で一種の歓びを感じることができます。


それは特別な理由もなく、皆さんを高揚させます。


皆さんは皆さんの内部の神性、存在しているすべてのものとの皆さんの親密な結びつきを感じます。


そういった感性は、皆さんがそれをほとんど期待していない時に皆さんのところに現われる可能性があります。


それはまるで何かさらに素晴らしいものが皆さんに触れるようなもの、あるいは皆さんがまるでさらに素晴らしい現実性に触れているように感じるものです。


感性はそれほど簡単に呼び起こされるものではなく、“突如として”皆さんの前に現われるように思われます。


感情はほとんどいつも明確な直接的な原因を携えています


“皆さんのボタンを押す”外部世界の起爆装置です。


感性は皆さんのさらに高い、あるいはさらに素晴らしい自己の次元が起源になっています。


皆さんのこころの中のそうしたささやきを捕まえるためには、皆さんは内面を平穏にする必要があります。


感情はこの内面の静謐と穏やかさを掻き乱すことができます。


その結果、感情的に穏やかになること、そして抑圧された感情を癒し、解き放つことが死活的な重要性を持つことになります。


唯一、皆さんを皆さんの魂と結び付けている皆さんの感性だけが、皆さんが平衡の取れた意思決定をすることを許します。


静かで穏やかで過ごすことによって、皆さんは皆さんという存在すべてである瞬間に正しいものを感じることができます。


感情に基づいて意思決定をすることは、非中心的な位置から意思決定をすることです。


また皆さんは、感情を解き放ち、明瞭性が存在する皆さんの内部の核心部分と接触を持つ必要があります。


さて、わたしは、どのようにすれば皆さんが皆さんの感情を最良に取り扱うことができるか、という質問に足を踏み入れたいと思います。


わたしは、“感性は皆さんの教師であり、感情は皆さんの子供である”、と伝えました。


“感情的である”ことと、“子供のようである”こととの間の類似点は、際立っています。


皆さんの“内面の子供”は、皆さんの感情の源です。


また、皆さんが皆さん自身の感情に対処する方法と皆さんが本当の子供達に対処する方法の間には、著しい類似性が存在しています。


子供達は正直であり、自分達の感情の中ではおおらかであり、そして、大人が子供達にそうするように促すまでは、子供達は感情を隠したり抑圧したりしません。


しかし一方で、子供達は自発的に自分達の感情を表現するという事実は、子供達が平衡の取れた方法で自分達の感情を表現していることを意味していません。


子供達は自分達の感情(怒り、怖れ、あるいは悲しみ)によってこころを奪われてしまう場合があること、そしてしばしば感情に歯止めを掛けることができないことは、誰でも認識しています。


そのような状況において、子供はほとんど自分達の上昇に引き摺られ、それが子供達を不安定な状況に、すなわち、中心から外れた状態になります。


この際限の無い情動性の理由のひとつとして、子供はつい最近、ひとつのほとんど限界のない世界を離れたことが挙げられます。


エーテル質、あるいはアストラルの次元において、物質的な領域の中の物質的な身体の内部のような制約や限界はありませんでした。


子供の感情は、しばしばこの物質的な現実性に対する“誤解という反応”になっています。


したがって、彼あるいは彼女が成長する時、その子供は自分達の感情に対処する際に援助や支援を必要としています。


これが、地上での“平衡の取れた肉体化”の過程の一部です。


そうであれば、皆さん自身あるいは皆さんの子供達のどちらで、皆さんはどのように感情に対処しますか?


感情は断定的に判断されたり抑圧されたりすべきではありません。


感情は人間として皆さんの死活的に重要な部分であり、そのため敬われ受け入れられる必要があります。


皆さんは、皆さんの注目と敬意、そして皆さんの助言を必要としている皆さんの子供達として、皆さんの感情を見ることができます。


ひとつの感情は、癒しのために皆さんに現われるエネルギーとしてとして眺めることが最も妥当になります。


したがって、感情によって完全に押し流されるのではなく、中立的な立場から感情に目を向けられる状態を維持することが重要になります。


意識的な状態を維持することが重要になります。


人は、皆さんは感情を抑圧すべきではなく、またその中に飲み込まれてもいけない、と表現することができるかもしれません。


それは、皆さんが感情に飲み込まれてしまう時、皆さんが感情と完全に一体化する時、皆さんの中の子供は皆さんを道に迷わせるひとりの暴君になります。


皆さんが感情に対して行うことができる最も重要なことは、皆さんの意識を失うことなく、それが皆さんの意識に入り、感情のあらゆる側面を感じることを許すことです。


例えば、怒りを取り上げます。


皆さんは、皆さんの身体のいくつかの場所で怒りを経験しながら、完全にその影響力が発揮されるように怒りを招くことができます。


一方で、皆さんは同時に中立的にそれを観察しています。


そういった種類の意識が癒しになります。


この例において起っていることが、皆さんが感情を受け入れているということであり、それは本質的に理解を伴った誤解のひとつの姿になっています。


これが霊的な錬金術です。


ひとつの具体例の助けを借りて説明させてください。


皆さんの子供が自分の膝をテーブルにぶつけてしまい、それは本当に痛くてたまらない状態です。


彼女は動揺し、余りに痛みに泣き叫び、怒りのためにテーブルを蹴り上げます。


彼女は、そのテーブルが自分の痛みの原因であると考えます。


この瞬間での感情についての助言は、まず親が子供を助け、彼女の経験に名前を付けることを意味しています。


“あなたは怒っていませんか? 痛い、そう?”


それに名前を付けることが不可欠になります。


皆さんはその問題の根をテーブルから子供自身に移します。


“それはテーブルのせいじゃなくて、傷つけたのはあなたであり、痛いのもあなたでしょ。そう、わたしはあなたの感情を理解していますよ!”


その親はその子供の感情を理解と愛情を持って受け入れています。


その瞬間、子供は理解した、実感したと感じ、子供の怒りは次第に消えて行きます。


肉体的な痛みは依然として存在しているかもしれません。


しかし、彼女のその周りの痛みや怒りに対する抵抗は、解消することができます。


その子供はあなたの目の中の思いやりや理解を読み取り、これが彼女の感情を寛がせ、和らげます。


感情の原因だったそのテーブルは、これ以上関係を持つもではなくなります。


理解と思いやりで感情を受け入れる際に、皆さんは子供の注意の焦点を外部から内部に移し、子供に感情に対する責任を負うように教えています。


皆さんは子供に、外部のきっかけに対する彼女の反応は、与えられたものではなく、選択の問題であることを明らかにしています。


皆さんは誤解か理解を選択することができます。


皆さんは格闘するか受け入れるかを選択できます。


皆さんは選択できます。


これはまた、皆さん自身の感情、皆さん自身の内面の子供との関係にも適用することができます。


皆さんの感情が発生することを許すこと、それに名前を付けること、そしてそれを理解するように努力することは、皆さんが事実通りに皆さんの内面の子供を敬い、大切にしていることを意味しています。


“外部”から“内面”に移行させること、その感情に対して責任を持つことが、内面の子供を作り出すために役立ちます。


それは他の誰も傷つけることを望まず、また不当に苦しめられていると感じることもありません。


怒り、悲しみ、あるいは怖れといった強力な感情は、いつも無力感の構成要素を備えています。


すなわち、皆さんは皆さんの外部の何かの犠牲になっている、という感覚です。


皆さんがその外部の環境に意識を集中させず、その代わりに皆さんの反応と皆さんの痛みに意識を集中させる時に皆さんが行うことは、皆さんがその感情の原因となっている外部の世界を“退ける”ことです。


皆さんは、感情を引き起こしたものについてそれほど配慮しません。


皆さんは完全に内面に転じて、皆さん自身にこう伝えます:わかった、これはわたしの反応だったものであり、わたしはその理由を理解している。


わたしは自分がそのようなやり方で感じる理由を理解していて、わたしはこれについて自分自身を後押ししてみよう。


こうした愛情のこもったやり方で皆さんの感情に目を向けることは、解放感をもたらします。


自制心といった種類のものを必要としません。


“悪の根源”としての外部の現実性を解き放ち、皆さん自身に完全に責任を持つことは、皆さんが“皆さんは特定の方法で反応することを選択する”ことを承認していることを意味しています。


皆さんは誰が正しくて誰が間違っているか、誰を何のために非難すべきかについて言い争うことを止め、単純に自分ではどうすることもできずに起っている出来事のすべての連鎖を解き放ちます。


“わたしは今、充分に認識した状態でこの感情を経験しているため、わたしはそうすることを選択します。


それが責任を負うことです。それが勇気です!


この状態における自制心は、皆さんが正義に与することも、また手の施しようのない犠牲者になることをも放棄します。


皆さんは怒りを感じること、誤解すること、そして他の被害者意識の表現をすべて放棄しますが、それは時に応じて極めて気分が爽快になります。


(実際に、皆さんはしばしば皆さんを最も苛立たせる感情を大切にします)。


責任を負うことは、謙虚さに属する行為です。


それは、皆さんが最も苦手な瞬間においても、皆さん自身に正直であることを意味しています。


これが、皆さんに求められている自己訓練です。


同時に、この種の内省は、最も深い思いやりを必要とします。


皆さんは感情に対して、皆さん自身の創造として誠実に直視する準備を整え、また穏やかな理解をもって見るようになります。


“あなたは今回怒りを選択しなかったでしょうか?


思いやりは皆さんにこう伝えます:

“わかりました、わたしはその理由を理解でき、わたしはあなたを赦します。


おそらく、あなたがわたしの愛を感じ、より明確に支援する時、


皆さんは次の時には、そのような反応を取りたいと思うようなことはないでしょう。”


これは、自己回復作用における意識の真の役割です。


これが、霊的な錬金術が意味しているものです。


意識はどのようなものとも格闘せず、否認しません;それは目覚めで闇を取り囲みます。


それは理解で誤解のエネルギーを包み込み、こうして普通の精神状態を黄金に変換します。


意識と愛は本質的に同じものです。


意識している状態は、何かを存在させていること、皆さんの愛と思いやりでそれを包み込んでいることを意味しています。

皆さんはしばしば、“意識それだけで”は皆さんの感情的な問題を克服するために充分ではない、と考えます。


皆さんはこう口にします:わたしは感情を抑圧してきたことを認識していて、わたしはその原因も認識している。


わたしは気付いているが、しかしそれは消え去らない。


このような場合、皆さんの内部にその感情に対する微かな抵抗が存在しています。


皆さんは、それによって圧倒されるという怖れから、一定の距離を置いてその感情を持ち続けています。


しかし、皆さんが意識的にそれを許す選択をする時、皆さんは決してひとつの感情によって圧倒されることはありません。


皆さんが一定の距離を隔ててその感情を維持している限り、皆さんはその感情と敵対関係にあります。


皆さんはその感情を格闘し、感情は幾通りかの方法で皆さんに敵対するようになるでしょう。


皆さんは結局、その感情を外部に留めておくことはできません。


それは、痛みや緊張として、あるいは 抑鬱した感情として、皆さんの身体の中でそれ自体を具体化することになるでしょう。


頻繁に気分の落ち込み、あるいは精神的な疲労を経験することは、皆さんが特定の感情を抑圧していることの明確な合図です。


それは、皆さんはその感情が完全に皆さんの意識に入ることを許す必要がある、ということを示しています。


もしも皆さんが何の感情がそこに存在しているかを確認できないとすれば、皆さんは皆さんの身体の緊張感を感じることで上手に始めることができます。


これが感情の出入り口になります。


それは皆さんの身体の中にすべて蓄積されます。


例えば、もしも皆さんが皆さんの胃の辺りに痛みや緊張を感じるとすれば、皆さんはそこに皆さんの意識と伴に向い、何が問題かを尋ねることができます。


皆さんの身体の細胞に皆さんに向って話しをさせてください。


あるいは、ちょうどそこに、ひとりの子供がいることを思い浮かべてください。


その子供に向って、何の感情が彼あるいは彼女の中で支配的になっているかを皆さんに明らかにするように尋ねてください。


皆さんの感情とつながるためには幾つかの方法があります。


感情を身動きが取れない状態にしたエネルギーが動きたいと思っていることを自覚すること、それが極めて重要になります。


このエネルギーは解き放たれることを望んでいて、そのため、肉体的な不満として、あるいは緊張や抑鬱という感覚として、皆さんの扉を叩いています。


皆さんにとって、それは実際に感情の開放、そしてその感情を感じる準備を整える、という問題です。


感情は皆さんの世界の現実性の一部です。


しかし、皆さんを支配するものにすべきではありません。


感情は太陽に対する雲のようなものです。


したがって、皆さんの感情を自覚して、意識的にそれに対処することがとても重要になります。


透明で平衡の取れた感情的な身体からであれば、皆さんの直観を通して皆さんの魂、つまり内面の核心部分と接触することがさらにとても簡単になります。


皆さんの社会において、感情についてかなりの混乱が生じています。


これは他の物事の中で、また数多くの議論から明白であり、皆さんの子供達を育てる方法についても混乱が起っています。


子供達は明らかに成人としての皆さんの現状よりも感情的にかなり大幅におおらかです。


これが難しさを創り出しています。


皆さんの道徳的な境界線が混乱したらどうでしょうか?


その状況が手に負えなくなり、混沌状態が発生したらどうでしょうか?


個人は子供達に対して規律を守らせる必要があるでしょうか、あるいは子供達に自分自身を自由に表現させますか?


子供達の感情は規制するべきでしょうか、それともそうすべきではないのでしょうか?


子供の成長において大切なことは、子供達は、自分達が何処から現われたのかを理解し、感情に責任を取るために、自分達の感情を理解することを学ぶ、ということです。


皆さんの支援を得て、子供は“誤解の爆発”として自分達の感情を学ぶことができます。


この理解によって、皆さんの子供は自分達の感情に“溺れる”ことを免れ、手に負えなくなることも免れます。


理解が解放をもたらし、その感情を抑圧することなく皆さんを皆さん自身の中心に戻します。


親は、その生きている具体例になることによって、このような方法で自分達の子供に感情に対処することを教えます。


皆さんの子供を扱うことについて皆さんが持っているすべての疑問もまた、皆さん自身に当てはまります。


皆さんは皆さん自身の感情にどのように立ち向かいますか?


皆さんは皆さん自身に対して過酷になりますか?


皆さんがしばらくの間怒りあるいは悲しみを感じている時、皆さんは、“さあ来なさい、落ち着いて、切り替えられるか”、と口にして皆さん自身を規律に従わせますか?


皆さんは感情を抑圧しますか?


皆さんは皆さん自身を罰することは正しくて必要だと感じますか?


誰が皆さんにこれを教えましたか?


それは親でしたか?


あるいは、皆さんは反対側に向いますか?


皆さんは皆さんの感情を手放すことを望まずに、それに耽溺しますか?


これもまた頻繁に見られる事例です。


皆さんは長い間、皆さんの外部のある状況の犠牲者だったと感じてきた可能性があります。


例えば、皆さんの幼少期の躾の環境、皆さんのパートナー、あるいは皆さんの仕事の環境などです。


ある瞬間には、皆さんに影響を及ぼしていた否定的な物事について、皆さんの内面で怒りを身近なものにすることにとても解放的でいたのかもしれません。


怒りは、皆さんがこうした影響力から自由にして、皆さん自身の道を進むようにすることできます。


しかし一方で、皆さんは皆さんの怒りにかなりこころを奪われることになり、その結果皆さんはそれ以降、怒りを放棄することを望まなくなります。


入り口になる代わりに、それはひとつの生き方になります。


その時、被害者意識の形成が生じ、それは癒しとは程遠いものになります。


それは皆さんが事実通り皆さん自身の力で立つことを妨げます。


皆さん自身の感情に対して責任を取り、感情を絶対的な真実にしないことはとても大切なことです。


皆さんが感情を“誤解の爆発”と捉えずに真実という地位を与えてしまう時、皆さんは感情の上に皆さんの行動の基礎を築いてしまいます。


そしてそれは中心から外れた意思決定につながることになるでしょう。


同じことが、過剰に感情的な自由を許されている子供達にも起っています。


子供達は暴力的に振る舞い、手に負えない状態になります。


子供達は小さな暴君になってしまい、もちろんそれは正しいことではありません。


感情的な混沌状態は、まさに親と同じように、子供にとっても不愉快なものです。


簡潔に言うと、皆はさんはその感情に対処する際に、過剰に厳格になるか、過剰に甘やかすかのどちらかになる可能性があります(そして、喩えとして、皆さんの子供達についても)。


わたしは“甘い”方法についてもう少し踏み込んでみたいとおもっています。


何故なら、それは最近ますます問題になっているように見えるからです。


60年代以降、皆さんの感情を抑圧することは好ましくない結果になる、ということは社会的な認識になってきました。


それは、その時皆さんは皆さんのおおらかさや創造性、実際に皆さんの魂そのものを窒息させるからです。


今後、社会はこころのささやきよりも規律に配慮する躾の行き届いた従順な子供達を産出するようになるでしょう。


そしてそれは、個人は言うまでもなく、社会にとっても、ひとつの悲劇になります。


しかし、他の極端な状況についてはどうでしょう。


感情がその後を引き継ぎ、皆さんの人生を規定するというような方法で感情を正当化することはどうでしょうか?


誤解の爆発という感情の本当の姿の代わりに、それを真実として考えるというやり方で皆さんが感情を大切にしているかどうか、皆さんは皆さんの内面をとても良く観察できます。


皆さんが今まで一体感を持ってきた感情が存在しています。


その逆説は、それにもかかわらず、余りに頻繁に、皆さんに多くの苦しみを引き起こす感情が存在している、ということです。


無力感(“わたしはそれをどうすることもできない”)、支配(“わたしはそれを操作できる”)、怒り(“それは彼らの過失だ”)、あるいは嘆き(“人生は悲惨だ”)などです。


こうしたものはすべて苦痛に満ちた感情です。


しかしそれにもかかわらず、べつの水準の上では、そういった感情は、皆さんが特別にしがみ付く何かを皆さんに提供しています。


無力感、つまり“犠牲者の感覚”を取り除いてください。


こうした感覚は、この感情的な一定の型に対して有利に働きます。


それは皆さんにある安心感を与えます。


それは皆さんの特定の義務あるいは責任から解き放ちます。


“どうしようもないんだけど?”


それは皆さんが現在腰掛けている暗い片隅ですが、しかしそれは一見安全な場所のように見えます。


長い間そういった感情的な一定の型を一体視したりあるいは“結合”したりする危険性は、皆さんが皆さん自身の真の自由、皆さんの最も深い内部の神聖なる核心部分と乖離してしまう、という事実です。


今まで皆さんの人生の小道には、皆さんの内面で正当に引き起こされた怒りや憤りという現象が入ってきたのかもしれません。


これは皆さんの若い時、その後、あるいは過去の生涯においてさえ起ってきたのかもしれません。


皆さんがこうした感情と意識的に接触を持つこと、そして皆さんが怒り、悲しみ、あるいは皆さんの内面に存在する他のあらゆる強烈なエネルギーの蓄積を自覚すること、それがとても大切になります。


しかしある一定の状況において、皆さんは皆さんの感情に対して責任を負う必要があります。


それは、その感情が外部の出来事に対する皆さんの反応を構成するからです。


落ち着いた状態でいること、明晰な状態や霊的に平衡の取れた状態でいることは、皆さんが皆さんの中に存在するすべての感情に対して充分に責任を取っていることを意味しています。


次に皆さんは、例えば皆さんの内面の怒りという感情を自覚し、同時にこう口にします:これは一定の出来事に対するわたしの反応だった。


わたしは納得してこの反応を抑え込んでいるが、しかし同時にわたしはそれを解き放ちたいと考えている。


人生は、突き詰めれば正しくあることが目的ではありません。


自由で健全になることが目的です。


ひとつの生き方で身に付けてきた古い感情的な反応を解き放つことは、とても解放感を感じるものです。


人は、それはすべて感情を抑圧することと感情に溺れることとの間の微妙な中道を目的にしている、と口にするかもしれません。


皆さんは、霊的な錬金術の特質とは一致していない両方の立場の私見や理想の中で成長してきました。


霊的な成長の本質は、皆さんは何も抑圧せず、しかし同時に皆さんは完全にそれに対する責任を負うことです。


わたしはこれを感じ、わたしはこの反応を選択し、そのためわたしはそれを癒すことができます。


わたしのメッセージが事実の通りに目的にしていることは、皆さんの熟達性を強く主張することです。


もしかすると、それは実際には中道ではないのかもしれませんが、しかし今までとは異なる道です。


それはすべて霊的な熟達性を目的にしています。


皆さんの内面に存在するすべてを受け入れる中で、皆さんはそれを昇華し、感情の熟達者になります。


熟達性は力強く、また穏やかです。


それはとても許容範囲が広いものですが、それにもかかわらず、かなりの規律を必要とします。


勇気と誠実という規律です。


皆さんの熟達性を強く主張して、さらに皆さんを悩ませ、しばしば皆さんの背後に潜んでいる感情的な断片の集積の熟達者になってください。


感情の集積と接触を持ち、責任を負ってください。


意識されていない感情的な数々の傷が、皆さんを衝動的行動に駆り立てることのないようにしてください。


それは皆さんを逸脱させ、皆さんの内面の自由へ向う道を阻みます。


皆さんの意識が癒します。


他の何物も、皆さんのために皆さん自身の感情を上回る力を回復させることはできません。


こうした感情を取り除く外部の装置や手段は存在していません。


強さと決意を持って感情を自覚することが、感情を光に向けて解き放つことになります


感情の水準で健全になり自由になることは、霊的な成長の最も重要な側面のひとつになっています。


わたしは、余り実際よりも難しく考えないでください、と伝えて終えたいと思います。


霊的な道筋は単純な道筋です。皆さん自身に対する愛や、内的な透明性が目的です。


どのような特殊な知識、あるいは特殊な儀式、規律、あるいは方法論も必要ではありません。


皆さんの霊的な成長に必要なものは、すべて皆さんの内面に存在しています。


穏やかな瞬間に、皆さんの感性の側面に向ってください。


この皆さんの感性の側面が、皆さんの内面に存在する明確にして浄化する必要があるものを皆さんに伝えるように働きかけてください。


それに取り組んでください。


皆さん自身の価値を信じてください。


皆さんは皆さんの人生の主人であり、愛と自由につながっている皆さんに固有の道筋の精通者です。


© Pamela Kribbe 2005
www.jeshua.net

http://lightworkers.org/channeling/135139/jeshua-dealing-emotions

翻訳:森のくまさま...ありがとうございます。

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